ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』上・下

ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』

動物解放論の原点

ジェレミ・ベンサムといえば、「功利主義の創始者」として、「最大多数の最大幸福」で広く知られています。しかしもう一面、ある文章で、一部の動物愛護家やヴィーガン達に知られた人物でもあるのです。

ここは動物愛護サイトですから、ベンサムの動物倫理感についてだけ論じます。ベンサムのもっと一般的な思想や功績についてお探しの方はすみませんが他をお探し下さい。

さて、その、動物愛護活動家たちに高く評価されている「ベンサムの有名な一文」とは;

the question is not, Can they reason? nor, Can they talk? but, Can they suffer?
(ここで問題なのは動物が理性を行使することができるかどうかということでも、動物が話すことができるかどうかということでもなく、動物は苦しむことができるかどうかということなのである。)
(ISBN:9784480511072 page 302)

 

たとえばピーター・シンガーの『動物の解放』『新・動物の解放』も、この一文をもとに論を展開してます。ヴィーガニズムの原点ともいえる思想です。

 

ここでベンサムが理性(知能)とならべて「話せるかどうか」をとりあげているのは、デカルトの「動物機械論」に対する批判でしょう。デカルトは『方法序説』(1637年)で、ヒト以外の動物には”言葉”というものがない、従って彼らには理性も精神もなく、苦痛を感じることもない、と断じています。ヒト以外の動物は、何をするにしてもすべてプログラムされた通りに機械的に反応しているだけであって、何も”感じて”はいないのだ。このデカルトの論は動物を使役したい人間にとってあまりに都合の良い理論だったため、長年支持されました。

現代にいたっても、愛玩動物以外の動物達の感情は、ほとんどの人々によって無視されつづけています。それは、畜産業界の産業動物達への扱い方や、海産物の鮮度重視「ついさっきまで動いていた魚、おいしいよ!」、動物園・水族館・動物ショー等の盛況ぶり、”害獣・害鳥”等に対する人々の態度、「趣味は痴漢」は決して誰も告白しないのに「趣味は釣り」は平気な風潮、等々、あらゆるところに「動物の苦痛は無視」という現実が現れています。(動物機械論の詳細は『方法序説』のページをご覧下さい。)

 

ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』

 

本文ではなく、原注の中の言葉

さて、この「苦しむことができるかどうか云々」という言葉は、『道徳および立法の諸原理序説 第17章 法理学の刑法分野の境界について Ⅰ。私的な倫理と立法の技術の間の境界 4。統治の技術、立法と行政の技術』の、本文ではなく、「原注」に出てくる言葉です。

『道徳および立法の諸原理序説』の本文は1780年に書かれ、1789年に出版されました。しかしベンサムはその後も思索・研究をすすめた結果、本書の内容はベンサム自身にとって不満足なものとなってしまっていました。かといって最初から書き直す時間はなく、また初稿の内容はすでに一部の人々に渡ってしまっている。そこで「原注」をいろいろ書き加えたそうです。1823年版の原注に、ベンサムのより深い思想があらわれていることが多いのもそのためです。

 

「4。統治の技術、立法と行政の技術」は2つの段落で構成された短い章で、こうはじまります。

それではある人物の行動の指針から影響を受けるとともに、幸福になることのできるその他の行為者とはどのようなものであろうか。これには二種類のものが考えられる。すなわち、人格と呼ばれるその他の人間と、その他の動物である。その他の動物は、その利益が古代の法律家の無関心によって無視されてきたために、事物の区分に分類されて貶められてきた(原注)

(後略)
(ISBN:9784480511072 、page281)

 

この「原注」が、注をつけられた本文(上記引用部分)の6~7倍も長いのです。ちくま学芸文庫では、この「原注」は、(傍点ではなく)太字の要約ではじまります。

人間に劣る動物の利益を立法が無視してきたのは間違いである
(ISBN:9784480511072 page 300、原書も太字)

 

なぜ法律は、人間の利益と同じように動物達の利益をも配慮してこなかったのか。その理由は、これまで定められた法律というものは、「相互的な恐怖」、つまり、投獄・罰金・処罰・処刑など刑罰に対する恐怖によって生み出されたものだったからだ、とベンサムはいいます。

理性の程度の低い動物は、この恐怖の感情を人間と同じように活用する手段を持つことができなかったのである。
(ISBN:9784480511072 page 300)

 

動物達はその行為を行うと罰せられるという恐怖をもつことができない、だから法の対象ともされなかったのだ、ということです。しかしそのような”常識”に、ベンサムは異議を唱えるのです。

それではなぜ動物の利益を考慮にいれるべきではないのであろうか。動物の利益を考慮に入れないことを容認するような根拠を示すことはできないと思われる。
(ISBN:9784480511072 page 300-301)

 

ベンサムは、人間が動物を”殺す”という行為そのものは、理由があるかぎり悪いことではないといいます。人間自身が生きるために動物を殺して食べたり、人間に害をなす動物を殺す場合等。しかし、

私たちが動物を苦しめてよいという理由はあるのだろうか。私にはいかなる理由も見つからない。
(ISBN:9784480511072 page 301)

 

かつてイギリスでも多くの人々が、奴隷として、下等な動物の種類と同じような取り扱いをうけていました。残念ながら、それは現在(本書執筆当時)でも世界からなくなってはいません。が、フランス人は、肌の黒さはその人を悪しく扱ってよい理由とはならない、とすでに気づきました。それと同じように、いつの日か、人間以外の動物達にも「権利」が与えられる日がくるかもしれない、とベンサムはいいます。そして「注」をこう締めくくります。

やがては、手足の数や皮膚を覆う毛や仙骨の末端部の違いによって、感覚をもつ生き物をどれも同じような運命に委ねる理由にはならないことが認識される日がくるかもしれない。この他にどこに乗り越えることのできない境界線というものがあるというのだろうか。理性の能力の違いあるいは話す能力の違いにあるというのだろうか。しかし成熟した馬や犬は、一日、一週間、一か月しか生きていない幼い人間と比べてみても、比較にならないほど理性的であり、会話することのできる動物ではないだろうか。動物がそのような状態にあるのでないとすれば、どうなるというのだろうか。ここで問題なのは動物が理性を行使することができるかどうかということでも、動物が話すことができるかどうかということでもなく、動物は苦しむことができるかどうかということなのである。
(ISBN:9784480511072 page 302)

【原文】

It may come one day to be recognized, that the number of the legs, the villosity of the skin, or the termination of the
os sacrum, are reasons equally insufficient for abandoning a sensitive being to the same fate. What else is it that should trace the insuperable line? Is it the faculty of reason, or, perhaps, the faculty of discourse? But a full-grown horse or dog is beyond comparison a more rational, as well as a more conversable animal, than an infant of a day, or a week, or even a month, old. But suppose the case were otherwise, what would it avail? the question is not, Can they
reason? nor, Can they
talk? but, Can they
suffer?
(原文はEconlibから引用,太字は原文ではイタリック体、綴り・改行は原文ママ)

 

ベンサムは、動物の理性や意思疎通力が人間を凌駕する場合もあることについて書いていますが、と同時に、「それが何だっていうんだ?そんなこと、関係あるか?」と問うています。「問題なのは、そんな、犬が賢いとか、馬が命令を理解するとか、そんなことじゃない。彼らが苦しむかどうかだ。理知的かとか言語能力じゃないんだ。苦しみを感じるかどうか、それだけが問題なのだよ」という意味のことをいっています。また、原文では “feel pain” ではなく “suffer” という単語を使っていることから、ベンサムは動物達の肉体的な痛みだけでなく、精神的な苦痛、苦悩をも視野に入れていたと考えてよいと私は思います。

ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』

 

快と苦痛

では、ベンサムは「苦痛」をどのようなものと考えていたのでしょうか?

厳密に言えばそれ自体において良いとか悪いとか言うことができるのは快あるいは苦痛についてだけであり、その効果において良いとか悪いとか言うことができるのは、苦痛や快をもたらすかそれを妨げるものについてだけである。
(第8章 意図について 13 良い意図と悪い意図の区別の無効性 ISBN:9784480511058 page 206)

  .

ところで快というものはそれ自体において良いものである。というよりも、苦痛から逃れることを除けば、快は唯一の善なのである。そして苦痛はそれ自体として悪であり、例外なく唯一の悪である。善と悪という言葉はこれ以外にいかなる意味もそなえていない。そしてこのことはあらゆる種類の苦痛とあらゆる種類の快についてあてはまる。
(第10章 動機について 10 いかなる動機もそれ自体で悪い動機ではない ISBN:9784480511058 page 238)

 

ベンサムにいわせれば苦痛は「例外なく唯一の悪」なのです。そしてこのことは、動物達に苦痛を感じる能力がある以上、どのような意図をもっていようと動物達に苦痛を与えることは悪である、ということにつながるといってよいでしょう。

それ自体で善あるいは悪であるのは快または苦痛だけであり、動機について、それ自体で善であるとか悪であるとは言えない。(中略)ある動機が苦痛を生み出すか快を防止する傾向をそなえているならば、その動機は悪である。
(第10章 動機について 12 どのような動機もどのような行動でも生み出すことができる ISBN:9784480511058 page 239)

 

この言葉を現代の工場的畜産業にあてはめて考えてみれば、「金儲けしたい」という動機そのものは善でも悪でもないということになるでしょう。しかし、その金儲けのために、ブタを、体の向きもかえられないほどに狭い妊娠ストールに押し込めてただの出産機械として扱い、ブタにひどい苦痛を与えること、そんな金儲け主義は「悪である」、なぜなら「苦痛を生み出しているから」、ということになると思います。

 

なお、ベンサムは快については14種類に分類しています。感覚の快、富の快、熟練の快、友愛の快、名声の快、権力の快、敬虔の快、慈愛の快、敵意の快、記憶の快、想像の快、期待の快、連想に基づく快、解放の快。そのうち、慈愛の快について、こう述べています。

(8)慈愛の快とは、慈愛の対象となりうる存在が享受すると想像される快を思い浮かべることによって生まれる快である。慈愛の対象となりうる存在とは、私たちが親しんでいる感覚的な存在であり、一般に次のようなものが含まれる。
一、至高の存在
二、人間
三、その他の動物
この快はまた、好意の快、共感の快、慈悲深さの快あるいは社会的な感情の快と呼ぶことができる。
(第5章 快と苦痛について 10 慈愛または好意の快 ISBN:9784480511058 page 104)

 

ベンサムは、動物が快を得ていると思うだけで人間にも快が生じると書いているのです。

 

ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』

  

ある「命題」について

ベンサムが「動物」について少しでも書いたり触れたりしているのは、最初に引用した第17章の文章のほかには、上に書いた第5章の慈愛の快の中の「動物」という語、これだけです。他の箇所では動物の「ど」の字も出てきません。

 

でももう1か所、私がうなづいた文がありました。これも本文ではなく「注」の中の文章です。しかも、本題にはいる前の「序」の中の、精神病理学の命題という単語についた「注」です。

(前略)「相手の敵意が満たされることで傷つけられた人の苦しみは、同じ原因で生まれたその人の満足よりも大きい」。これらの命題(中略)は、数学者たちが公理と呼んでいるものと同じような意味で、公理と呼ばれる資格のあるものである。これらの命題は普遍的な経験を直接の土台とするものであり、論証することができず、ただ展開されて例証されるだけで、議論の余地のないものとして認められるべきものだからである。
(序 ISBN:9784480511058 page 26)

 

相手の敵意が満たされることで傷つけられた人の苦しみは、必ず常に、同じ原因で生まれたその人の満足よりも大きい、という言葉に、その通りだろうと思ったのです。

たとえ話をします。あなたは公園のベンチで昼寝をしていました。そこへ小学生が、あなたがいることに気づかず、元気に歌いながら通りかかりました。昼寝の邪魔をされたあなたは腹を立てて小学生の頭をゲンコツで強く殴ってしまいました。さて、このとき、あなたは殴ったことで、その一瞬だけは少しウサを晴らすことができたかもしれません。一方の小学生はどうでしょう?見知らぬ大人に突然殴られ、頭は痛いし、それ以上にびっくりして怖かったでしょう。あなたが小学生をなぐったことで得られた快と、殴られた小学生が味わった苦痛、どちらが大きいか。まちがいなく小学生の方です。

そしてこの「命題」の「敵意」を「食欲」など別の単語に少し書き換えれば、そのまんま、現代の工場畜産と消費の関係に適合すると思ったのです。

たとえば、フライドチキン。ほぼすべてがブロイラーという食肉用鶏種です。ブロイラーは急激に成長+肥大するように品種改変されてしまっているため、孵化後わずか6週間で出荷できる大きさまで育ちます。ペットの鶏が7〜10年、中には15年20年と生きる子もいることを考えれば、6週齢なんてまだ子供、雛にすぎません。鳴き声もコケコッコーではなくピヨピヨのままです。しかし体だけは大きいのです。人間でいえば300㎏の3歳児みたいなものです。当然、体には大変な無理がかかっていますから、ろくに歩くこともできません。そのあなたもついに出荷される日がきました。前日から水も食料も与えられず、絶食です。当日は、狭い檻に他の鶏たちとギュウギュウに詰め込まれ、トラックに積まれて何時間もかけて食鳥処理場まで運ばれます。やっと着いてからも数時間そのまま、時には翌日まで待たされることもあります。とうとう、あなたは作業員に足をつかまれて逆さづりにされました。ベルトコンベアーで電気ショックを与えらたあと、機械で喉を切られますが、まだ死に切れません。さらに意識のあるままあなたは熱湯につけられます。ここでようやく、あなたの心臓は止まりました。その後、あなたは解体され、フライドチキンに揚げられました。あなたを食べた男はスマホで動画を見ながらでした。咀嚼して飲み込むまでの時間わずか30秒。あなたの骨はゴミ箱に捨てられました。「このチキン、パサパサでイマイチだったな。」【注】

【注】参考:動物解放団体リブ » 動物利用問題 » 【まとめ】鶏肉の裏側。肉養鶏・ブロイラーのたった6週間の一生(2025/12/28)

 

あなたを食べたことで男が味わった快と、食べられる為に繁殖させられたあなたが人に食べられるまでに味わされた苦痛、どちらが大きかったと思いますか?・・・!!

 

人以外の動物達をも法的に認めた国々

ベンサムが「問題は、苦しむ能力があるかどうかだ」と書いてから、200年以上たちました。そしてやっと最近になって、動物たちも意識・感覚のある存在であると法的に認める国がでてきました。

その最初はニュージーランドでした。人口よりヒツジの数の方が多いことで有名な国。その中心となる法律は”Animal Welfare Act 1999“(動物福祉法1999)。この法律で、動物は”sentient beings(感覚ある存在)”として認められ、”Five Freedoms(五つの自由)”が唱えられました。その五つとは、

  1. 飢えと渇きからの自由 (Freedom from Hunger and Thirst)
  2. 不快からの自由 (Freedom from Discomfort)
  3. 痛み・傷害・病気からの自由 (Freedom from Pain, Injury or Disease)
  4. 恐怖や抑圧からの自由(Freedom from Fear and Distress)
  5. 正常な行動を表現する自由 (Freedom to Express Normal Behaviour)

この動きは、まだごくゆっくりとですが、ひろまりつつあります。ドイツは憲法(基本法)に動物保護の原則を明記した最初の国となりました。2026年現在、EUは条約レベルで動物を「感覚ある存在」と明記しており、加盟国はこれを国内法に反映する義務があります。

以下がそのドイツ基本法「動物保護条項」です。

Artikel 20a – Schutz der natürlichen Lebensgrundlagen und der Tiere
Der Staat schützt auch in Verantwortung für die künftigen Generationen die natürlichen Lebensgrundlagen und die Tiere im Rahmen der verfassungsmäßigen Ordnung durch die Gesetzgebung und nach Maßgabe von Gesetz und Recht durch die vollziehende Gewalt und die Rechtsprechung.
【AI和訳】国家は、将来の世代に対する責任のもと、憲法秩序の枠内で、立法によって、 また法律および法の定めに従って、行政権および司法権を通じて、自然的生活基盤と動物を保護する。

 

残念なことに、日本ではまだ動物は物扱いのままです。意識や感覚のある存在としては認められていません。国際比較でも、日本の動物の感覚(sentience)の法的認知は7段階評価の下から2番目「F」です。物扱いですから、たとえば400頭(1000頭との説も)の犬たちを劣悪な環境で虐待・ネグレクトし、何頭もの犬たちを無免許・無麻酔で帝王切開した男の判決が、「懲役1年、執行猶予3年、罰金10万円」とわずかなものだったりするのです(2024年5月、長野県松本市アニマル桃太郎事件)。

 

200年たってもまだ日本はベンサムの思想に追いついていないといえるでしょう。情けない限りではないでしょうか。

おまけ:ベンサムの造語

「international(国際)」という言葉を”作った”のはベンサムである、というのは学界でも広く認められていることです。あるいはこの語はベンサム以前からもつかわれていたかもしれませんが、この『道徳および立法の諸原理序説』で、ベンサムが国と国の関係を扱う法体系を指す語として定義し、その後広く使われるようになりました。

 

ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』

※著作権法に配慮し、本の中見の画像にあえてボカシをいれる場合があります。ご了承ください。

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目次(抜粋)

上巻

  • 第1章 功利生の原理について
  • 第2章 功利生の原理に反するさまざまな原理について
  • 第3章 快と苦痛の四つの源泉および制裁
  • 第4章 さまざまな快と苦痛の価値ならびにその測定方法
  • 第5章 快と苦痛について、その種類
  • 第6章 感受性に影響を与える状況について
  • 第7章 人間の行動一般につぃて
  • 第8章 意図について
  • 第9章 意識について
  • 第10章 動機について
    I 動機という言葉のさまざまな意味について
    II いかなる動機もつねに善であったり悪であったりすることはない
    III 快と苦痛の一覧表に対応した動機の一覧表
    IV 動機の優劣の順序
    V さまざまな動機の間の対立
  • 第11章 人間の気質一般について
  • 第12章 有害な行為の結果について
    I 行為の有害さが現れる携帯
    II 意図などは行為の害悪にどのように影響するか
  • 第13章 罰すべきでない場合 I 罰すべきでない場合の概要
    II 刑罰を与える根拠がない場合
    III 刑罰を与えても効果がない場合
    IV 刑罰を与えても利益がない場合
    V 刑罰を与える必要がない場合
  • 訳注

下巻

  • 第14章 刑罰と不法行為の均衡関係について
  • 第15章 刑罰に与えるべき特性
  • 第16章 不法行為の分類 I 不法行為の種類
    II 区分と小区分
    III 第一種の不法行為の再分類
    IV この方法の利点
    V 五種の不法行為の性格
  • 第17章
    I 私的な倫理と立法の技術の間の境界
    II 法理学の分野の分類
  • 結語としての覚書
  • 訳注
  • 訳者解説『道徳および立法の諸原理序説』を読む
  • 訳者あとがき
  • 索引

著者について

ジェレミー・ベンサム Jeremy Bentham

1748-1832年。イギリスの哲学者・法学者。ロンドンに生まれ、12歳でオクスフォード大学クイーンズカレッジに入学。法廷弁護士となるがのちに法曹界に幻滅し、終生著述家として多方面で活躍した。近代功利主義論の創始者と目され、その思想は現代にいたるまでさまざまな分野に影響力を及ぼしている。著書に『統治論断片』『法一般について』『高利弁護論』などがある。
(著者プロフィールは本著からの抜粋です。)

『道徳および立法の諸原理序説』上・下

  • 著:ジェレミー・ベンサム Jeremy Bentham<
  • 訳:中山元(なかやま げん)
  • 出版社:(株)筑摩書房 ちくま学芸文庫
  • 発行:2022年
  • NDC:321.1(法学・法理学、法哲学)
  • ISBN:9784480511058、9784480511072
  • 399ページ、457ページ
  • 原書:”An Introduction to the Principles of Morals and Legislation” 1780
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