荒木博之『やまとことばの人類学』
副題:『日本語から日本人を考える』。
題名通り、やまとことば=昔からの日本語の、意味やなりたち、その言葉に込められた心などを述べた本である。
第一部「日本人の価値体系とことば」では、「れる」と「られる」、「いけない」と「ならない」、日本の共同体などについて語る。
第二部「日本人の世界観とことば」では、「もの」と「こと」の違いやその裏に含まれた意味、さらに「ものおもう」や「もののあはれ」、「ものがたり」、「ことわざ」、日本人の標語好きについてなどについて語る。
第三部「日本人の宇宙論とことば」では、「よ」や「とし」、「君が代」考、「ゆ(湯)」についての日本人独特な心理などについて語る。
と書けば、「なぜこの本が猫サイトで取り上げられるのか」と疑問に思われるだろう。猫はどこにも出てこない。
しかし、読んでいるうちに、昔から不思議に思っていた現象が、突然、少し理解できたような気がしたのである。
日本人はとにかく子猫(や子犬など幼い動物)が好きだ。
それも、幼ければ幼いほど人気がある。
実際に自分が里親募集してもそうだし、里親募集掲示板を見ていても、まだ離乳もしていないような子猫は飛ぶように決まっていく。
私は里親希望者から「生後二週間くらいの子猫が欲しい」といわれて仰天したことがある。しかし、こんな希望者は特に珍しいわけではない。
またあるときは「子猫は生後三ヶ月まで親兄弟と一緒に育て、それから譲渡するのが理想」と書いたら、「三ヶ月なんてもう子猫じゃありません!」と反論された上、掲示板にしつこく嫌がらせを受けた事もある。
三ヶ月というのは何も私の独論ではなく、欧米のペット先進国では勿論、日本でも心ある人なら必ず同じ事を言うのだが。
日本のペットショップでは、生後4週間で母猫から離して店頭のショーケースに入れ、生後6週間までに売り飛ばすというのが一番理想的な売り方、だそうだ。
動物の発達心理学上でいえば、まったくメチャクチャである。
しかしコスト上の問題とともに、顧客が「少しでも幼い子」ばかり求めるから、そんな風習ができてしまったのである。
・・・平成18年1月環境省が発令した「動物取扱業者が遵守すべき動物の管理の方法等の細目」では、発令前の素案は8週齢以下の犬猫売買禁止の方向が示され喜んでいたのに、ふたを開けてみたら「・・・適正な期間、親、兄弟姉妹などとともに飼養又は保管すること。」(第5条ホ)という、てんで無意味な文章にすり替えられていた。
8週間案に対する反対が半端でなかったらしい。
たしかに、幼い子猫は途方もなくかわいい。
また、そうでなくとも人より短命な猫、1日でも長く一緒にいたいから子猫を、という心理もあろう。
が、それだけなら、欧米人とて同じである。
日本人一般の子猫好きは、理屈を通り越して、ほとんど宗教じみているようにさえ感じられるのだ。
これは里親募集に実際にかかわった者としての実感である。
さて「やまとことばの人類学」では、日本的共同体=ムラ的共同体について述べられている。
ムラ意識の最小の単位は「家」だろう。
日本的考え方では、「家族」とはあくまで、その家で生まれ育った者達に限定される。
他家から嫁いできた「嫁」や「入り婿」は一生「嫁(婿)」=他人のままなのである。
どれほど家のために働こうと、経済的に支えようと、嫁は嫁、婿は婿、その「家の者」ではない。
このことは全国の嫁や婿が同意してくれるだろう。
そもそも姑に対し「まるで本物の家族のように扱ってくれるんです」なんて言葉が最上の褒め言葉になるという実態がおかしい。
結婚するとは、その家族の一員になることである、というのは、法的にも保障されていることだ。
家族として扱う方が当然なのである。
が、現実は、いつまでたっても「嫁(婿)」は「嫁(婿)」のままであり、「娘(息子)」にはなれないのだ。
しかし、「嫁」が生んだ子供は、その家の者となる。
「嫁」は「その家の娘」にはなれないが、「母」にならなれるのである。
子猫信仰にも、似たような心理が働いてはいないか。
ヒトはネコを産めないから「よそ者」が産んだ子猫を連れてくるのは仕方ないとして、少しでも赤子の状態で迎えたい、という心理は無いか。
赤子こそ、無条件に「家族として迎えられる」存在なのではないだろうか。
また。
日本人は古い「こと」から新しい「こと」に移ってゆく場合、必ず一旦立ち止まり、古い「こと」と決別しながら、新しい「こと」に立ち向かう強い傾向がある・・・
日本人は、新しく「こと」を始めるときは、何もかも一新して真新しい状態ではじめようとする。
新年には新しい下着をおろし、新婚夫婦は新しい家具を買う。
新しく「猫を飼う」ときも同じく「できるだけ真新しい状態の猫=幼猫」を求めてしまうのではないだろうか。
また。
欧米人の基本的人間認は
人と人とは深い断絶の淵を前にしながら人間実存の孤独さにおいて別々に向き合っているとする、個と個の断絶の認識に発している。
それに対し日本人は
個はあくまでも共同体の一員として、共同体の論理に統合されるべき集団の構成要素でしかあり得ない。したがって個は、集団の論理のなかに完全に埋没し消滅してしまう。
欧米人は、人と人はもちろん、人と猫の間にも決して克服できない深い溝があることを理解している。
理解した上で、にもかかわらずなんとか歩み寄ろうとする。そこには子猫/大人猫の区別はない。
日本人は、個を持った存在は受け入れられない。受け入れられるには、個を消滅させないとならないからだ。
であれば、まだ自我の芽生えていない子猫しか受け入れられないということになる。
また。
「愛する」ことが「支配する」ことであり、「支配する」ことが「愛する」ことであるような、現代人の心・・・
もし愛=支配であるなら、・・・すでに自我を持ってしまった大人猫を支配はできない。つまり大人猫は愛せない(愛しにくい)、ということになる。
人が容易に「支配」できる猫とは、幼猫のことである。
このように書くと、「何もかも猫にこじつけすぎる」と思う人がいるかもしれない。
私自身、日本人の子猫好きが、単に「子猫の方がかわいい」というだけの理由であってくれれば、その方がうれしいのだ。
同じ子猫好きでも、もし日本民族の気質に深く起因しているというのであれば、改善するのに何十年、下手すると何百年もかかってしまうから。
とはいえ、ありがたいことに、猫達のことを真剣に考えてくれる理想的飼い主さんほど、猫の年齢にこだわらない傾向が強くなっては来ている。
たとえば、仕事で日中は留守にするからと、何ヶ月も根気強く、子猫ではなく中猫を求めてくれた人。
自分の欲望より、猫の幸せをまず第一に考えてくれる人だから、留守ができる年齢まで育った猫をわざわざ求めたのだ。
今後はますますこういう人が増えてくれるだろうと期待している。
あとはマスコミの教育ですかね。
生後6週間の子猫なんかスタジオに連れてくるなよ・・・!!
(2006.8.20)
※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。
『やまとことばの人類学』
日本語から日本人を考える
- 著:荒木博之(あらき ひろゆき)
- 出版社:朝日新聞社 朝日選書
- 発行:1983年
- NDC:810(言語学:日本語)
- ISBN:4022593938
- 202ページ
- 登場ニャン物:-
- 登場動物:-