清水幾太郎『論文の書き方』

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清水幾太郎『論文の書き方』

 

今の時代だからこそ、良い文章とは何か考えたい。

ブログが大流行である。

それとほぼ時を同じくして、変な文章が目立ち始めた。
絵文字だらけの、妙にカラフルで明るい、しかし日本語として稚拙な文章。

若い子達の携帯メール文がそのまま、WEB上のサイトにも現れてきたらしい。

私は絵文字文は読まない。目がちかちかするばかりで非常に読みにくいし、第一、そういう絵文字文に有意義な内容はまず望めない、と思っちゃうからだ。
あるいは偏見かもしれない。
偏見でもよい。
あんな文章でまじめな考察を書くのは実際不可能だだとしか思えない。なら、私には、苦労してまで読む価値もなかろうというものだ。

「論文の書き方」の中で、清水幾太郎は『書き言葉は孤独である』と論じる。
以下、略ばかりの引用文で申し訳ないが、全文を引用するとあまりに長くなるので、読みにくいのはご容赦願いたい。

1.(前略)、人間が話し言葉を用いる時は、誰か相手がいる。しかも、同様に話し言葉を用いる相手がいる。従って、話し言葉の相互的使用、つまり、会話ということになる。このように眼前に相手がいることは、話し言葉にとっては根本的な規定になる。しかし、相手がいるというのは、通常、第一に、相手を知っていることを含んでいる。相手の素性、性格、考え方などを知っていることを含んでいる、それは、第二に、自分と相手との間に一定の関係があることを含んでいる。(中略)第三に、こちらが話せば、相手はこれに反応を示す。(中略)
2.(前略)こちらと相手とは、(中略)、或る共通の具体的状況の中に立っている。この状況は話し合う双方によって共有され、前提されている。(中略)
3.言うまでもなく、会話においては、話し言葉の他に、表情や身振りが自由に使われる。或る時は、表情や身振りが言葉に対して単に補助的な役割を果たすけれど、他の時は、逆に言葉の方が表情や身振りに対して補助的な役割を果たしている。(後略)

携帯メールも多くは時間差のある会話のようなものだ。メールを送る側も受け取る側もお互い知己で、同じ学校など共通の具体的状況の中にある。時間差があるといっても昔の手紙のように返事ひとつに何日もかかるわけではない。時にはほとんど瞬時に相手からの反応が返ってくる。欠けているのは表情や身振りである。それも絵文字の発明でかなり補えるようになった。時には実際に会って会話するよりメールの方がより理解し合えるほどに発達した。

多くの協力者がいる話し言葉に対し、書き言葉は孤独である。

文章においては、言葉は常に孤独である。それは全く言葉だけの世界であって、どこを眺めても協力者はいない。会話において多くの協力者がやってくれた仕事を、一つ残らず、言葉が独力でやらなければならない。文章を勉強するには、何は措いても、このことを徹底的に頭に入れておく必要があると思う。この点で、書き言葉は話し言葉と全く条件が違うのである。

少し前まで、ウェブ上のサイトも孤独な書き言葉で構築されていたと思う。サイトを訪問するのは不特定多数の未知なる人たち。言葉一つにもぴりぴりと神経を使って作られたに違いないサイトは多かった。

それが、携帯電話さらにスマホの発展と、ブログという簡易サイトの普及で、ひどく読みにくい文章が散見されるようになった。清水幾太郎のいうところの「話し言葉」で文章を「書く」から、知らない人間には読みにくいのである。今の若い子風に「読みづらい」と表現する方がより適切かもしれない。本当に「読むのがつらい」のだから。

困ったことに、「話し言葉気分で書かれた文章」は絵文字文だけではい。一見書き言葉風の文章の中にさえ、内容的には「話し言葉」気分のものは珍しくない。書き言葉という孤独な世界に入る覚悟が決まらないまま、あるいは、覚悟が必要なことに気がつかないまま、書かれた文章である。視線が自分だけ、あるいは、きわめて狭い範囲だけに限られた文章である。

しかしインターネットの最大の特徴は、世界中につながっているということだ。世界のどこからでも情報を取り出せると同時に、名のない一個人でも自由に、全世界に向けて情報を発信できるということだ。Web2.0時代と呼ばれるようになった今、webの双方向性的機能はますます広がっていく。

これは本当にすばらしい事だ。
しかし、と同時に、空恐ろしいことだ。

たぶん、このネットの広さと恐ろしさに気がついていない人が、話し言葉気分のまま、文章を「書いて」いるのではないかと思う。しかも、そういう人がどんどん増殖しているのではないかと思う。なにしろ、今ではほとんどの日本人がSNSやブログやラインその他で書きまくっている時代なのだから。

清水幾太郎がもっとも活躍したのは、私が生まれる前だった。「論文の書き方」は学生時代に初めて読んだが、当時ですでに古典的名著的存在だった。しかし、今回読み返してみて、古さは微塵も感じられない。むしろ学生時代より今回の方がインパクトは強かった。当然である。学生時代に書いた物と言えば教授に提出するレポートくらい。今はホームページを持っている以上、全世界を相手に日々文章を発表しているようなものだ。書くことの重圧はまるで比べものにならない。

読後感は、しかし、とてもさわやかだった。ピシっと心地よく説教された気分だ。

ああ、そうだった。やはり文章を書くには相当な覚悟が必要なのだ。「書く」というのは気が滅入るほどに大変な作業であるべきなのだ。それは今も昔も変わらないどころか、今の方が或る意味、もっと責任重大なのだ。・・・

私は、恥ずかしながら思想家としての清水幾太郎はほとんど知らず、そちらの方面については何も書けない。が、この「論文の書き方」は名著だと思う。昔から有名な本ではあるけど、今の時代にこそ、もっと読まれるべき本だとも思う。猫とは全く無関係な内容だが、猫サイト管理人(ブロガー含む)は是非こういう本をも読んで、文章を書くという事の意義をもう一度よく考え直し、良質なサイト構築に役立ててほしいと思い、猫本リストに加えることにした。

(2007.1.10.)

清水幾太郎『論文の書き方』

清水幾太郎『論文の書き方』

 

※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。

 

『論文の書き方』

  • 著:清水幾太郎(しみず いくたろう
  • 出版社:岩波書店 岩波新書
  • 発行:1959年
  • NDC:816.5(作文、文体)
  • ISBN:4005140922 9784004150923
  • 214ページ
  • 登場ニャン物:-
  • 登場動物:-

 


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