内田百閒『贋作吾輩は猫である』

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内田百閒『贋作吾輩は猫である』

 

漱石の弟子が書いた『猫』の続編。

夏目漱石の『吾輩は猫である』で、吾輩君は最後は水瓶に落ちて溺死してしまう。が、正確には、本文のどこにも「死んだ」とは明言されていない。ただ意識を失っていく場面がつづられているばかりである。

だから、あちこちで吾輩君は生き返る。中には生き返って香港まで遠征して探偵する吾輩君もいる(奥泉光『吾輩は猫である殺人事件』)。

しかし、一番の正統派続編はといえば、この百閒先生の『贋作吾輩は猫である』だろう。自ら「贋作」と名乗っているものに対して正統派という表現はおかしいけれど。

百閒先生は、夏目漱石の弟子だった。それに、なんといってもあの『ノラや』の著者なのだ。

厳密には、百閒先生がこの『贋作~』を書いたのは1949年で、愛猫ノラと出会ったのはその6年後の1955年、ノラを飼うまで子供時代を除いて猫と暮らしたことはなかったそうだ。
だから『贋作~』を書いた当時は身の周辺に猫はいなかった。
それに対し、漱石は執筆当時、猫と暮らしていた。
そのため解説の中で柘植光彦氏は
「漱石の『猫』には、猫がカマキリやセミを捕らえるようすなど、ずばぬけた猫の生態描写があるが、百閒はその方面で漱石と勝負することは、最初からあきらめていたようだ」
と書いている(福武文庫版)。

だが、どうしてどうして。
『ノラや』を書かせた猫溺愛精神の片鱗が、すでにこの『贋作~』にちらほら見えているようで、おかしいというか面白い。

まず、猫の地位の引き上げ。

『猫』では名前さえ与えられていなかった吾輩君が、『贋作~』ではアビシニヤという立派な名前が与えられ、「アビや」と優しく呼びかけられている。
おさんに蹴飛ばされんばかりに扱われていた吾輩君とはえらい違いだ。

食事は、吾輩君は食器代わりのアワビ貝に汁かけ飯だけだったが、アビシニヤは、少々欠けているとはいえ人間用の藍模様の大皿に、麦の混ざったご飯を盛り、美味しい汁をかけ、紙袋から煮干しを五六匹掴みだしてふりかけ、さらに
「そうそう、まだあれが有ったっけ」
と、かますの干物の頭を二つ乗せる、という贅沢なもの。
それを
「さあさあお上がり、お待ち遠さま」
と勧められるのだ。
さしもの猫君も、これには面食らう。

苦沙弥先生の奥さん、すなわち珍苦沙の細君とは余程調子が違う。さて、試に口をつけて見るに、小さいながらも尾頭つきの煮干し、かますの頭は云う迄もなく吾輩に取って大牢の滋味であるが、さっきお神さんが鍋の底から御飯の上に掛けた汁のうまい事、その風味は何にたとえる物もない。味は鶏肉の出しであるが、その奥にもう一つ吾輩の味覚の記憶にない所がある。有りったけ舌を伸ばして、べちゃべちゃと舐め且つ食った。(中略)
煮干しは云う迄もなく、かますの頭の骨もきれいに食べ尽くし、お皿についた汁を丹念に舐めて、拭いた様にしておいた。後で更めて吾輩の食器を洗わなくてもいい。親切なお神さんに対する猫としての内助の一端である。
page9

その他、「ほんとに器量よしの猫だわ」だの、「お行儀の良い猫だわ」だの、あわれな吾輩君が聞いたこともないような賞賛の声をかけられている。
『猫』の続編にしては、はるかに待遇が良いのだ。

猫君、良いおうちで良かったねえと、読んでいる方も気持ちが良くなってしまう。

もっとも、五沙弥の家としての格式は、集まる客人も含め、苦沙弥邸よりかなり落ちるようだ。
苦沙弥邸も泥棒にちょっとはいられただけで文字通りその日に着るものさえたちまち窮するような家だが、五沙弥邸はもっとひどい。
それでも上述のご飯。
これでは生き返ったアビが苦沙弥邸を忘れて五沙弥邸に居ついてしまうのもうなずける。

おそらく百閒先生は意図的に猫の地位上昇をはかった訳ではなかったのではないか。
猫を扱うにあたって、百閒先生にとっては、このように振舞うことがごく自然なことで、それがそのまま筆にも出ただけなのではないかと思う。
作為が無いからこそ、こんなに暖かく、猫君も幸せそうなのだろう。

小説としての内容は、・・・
『猫』の洒脱な会話を引き継いで、ほとんど軽妙な会話ばかりで成立している本だ。
しかし『猫』ほどの風刺や含蓄は無く、あまり意味のある会話とは思えない。
数多くの非常にユニークな登場人物や登場ニャン物が出てくる。
それらが皆でワイワイ言っているだけで、特にストーリーがあるわけではない。
あの『猫』に肩を並べるのは難しいにしても、『贋作』とはいえ『吾輩は猫である』と銘打つなら、もう少し「何か」が欲しかったかような気もしないではない。

(2002.8.31)

内田百閒『贋作吾輩は猫である』

内田百閒『贋作吾輩は猫である』

 

 

※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。

 

『贋作吾輩は猫である』

  • 著:内田百閒 (うちだ ひゃっけん)
  • 出版社:福武文庫
  • 発行:1992年
  • NDC:913.6(日本文学)小説
  • ISBN:4828832440 9784828832449
  • 271ページ
  • 登場ニャン物:アビシニヤ、無名の猫達
  • 登場動物:-

 

 

著者について

内田百閒 (うちだ ひゃっけん)

1889年、岡山市に生まれる。本名栄造。生家は造り酒屋・志保屋。東大独文科卒。東大在学中に漱石門下生となる。陸軍士官学校、海軍機関学校、法政大学等で独語教師を18年間務める。1921年、「冥途」を発表以来、次々に佳作を発表。1967年、芸術院会員推薦を事態する。主な著書に「冥途」「旅順入城式」「百鬼園随筆」「阿房列車」「東京焼盡」などがある。1971年、没。

(著者プロフィールは本著からの抜粋です。)


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