『ヒグマ学入門』

『ヒグマ学入門』

副題『自然史・文化・現代社会』。

20人ほどのヒグマ研究者たちの成果を集めた一冊。彼らの専門は多岐にわたり、多方面からヒグマについて知ることが出来ます。まさにヒグマ学入門の書です。

2025年はクマ出没ニュースであふれた年でした。とくに秋になってからはクマニュースがマスコミに出ない日はないくらいで、海外メディアにも大きくとりあげられました。「今年の漢字」にも「熊」が選ばれました。・・・もっとも、そんなクマニュースの中には、山裾の民家の柿の木に小熊が登っていたなんていうような、例年なら誰も気にしないような些細なニュースも多かったのですけれど。

ヒグマは一般に思われているほど肉食ではない

『第Ⅰ部 ヒグマの自然史』に、ヒグマの食生活について詳しく書いてあります。これをみて思うのは、ヒグマがいかに植物質中心の雑食性かということです。植物が乏しい時期は有蹄類を、サケ科が遡上する時期は魚類を、初夏から秋まで昆虫を食べていますが、主食や草本類・果実類です。

 

『ヒグマ学入門』

 

おもしろいのは、アリ類をせっせと食べていること。あの巨体が小さなアリをペロペロなめている様子は想像するだけでなんか可愛い♡また、どんぐり等堅果類にしても、ベリー等果実類にしても、山に生えている自然種は実が小さいですよね。口の周りを赤や紫に染めながら、せっせと野イチゴやヤマブドウを食べるヒグマ。どれだけ食べればお腹がいっぱいになるんだろう?どれだけ食べれば3~4ヶ月にもなる冬眠を越せるだけの脂肪を蓄えられるのだろう?女羆はその間に出産までするんですよね。こりゃ、大変なワケだ!山の幸よ豊富であれと祈らずにいられません。

ヒグマは世界各地に広く生息していますが、北海道のヒグマはとくに植物食性が強いのだそうです。そのひとつの理由として、サケを食べられないというのがあるそうです。ヒグマといえば川に集まってサケを捕っている姿が有名ですが、今の北海道では、サケは河口付近で人間によりほぼ完全に捕獲され、人工孵化事業に提供されてしまいます。その上、サケの産卵場そのものも環境破壊により急速に劣化・減少しています。そのため、ヒグマが食物として利用できるサケは現在では極めて少なく、国立公園など一部の保護地域を除き、ほぼ皆無といってよいそうです。

サケ・マスを食べられない北海道のヒグマたちは、世界の他の地域のヒグマたちより、平均体重が軽く、出産頭数も少なくなってしまっています。

北海道ヒグマの1頭あたりの子供の数の平均は、野生でも飼育下でも1.7頭であるのに対して、アラスカでは2.8頭、カムチャッカ2.6頭、サハリン2.2頭とほかの地域では多く、ヒグマの平均体重も重い。アラスカやカムチャッカでは稀に4頭が報告されている。
(第Ⅰ部第2章『ヒグマの飼育からわかること』前田菜穂子page 24)

日本人には様々な食料が豊富にあります。世界的に見ても食材のきわめて多い国です。その一方で、北海道の川を遡上するサケ・マスは、おそらく地球温暖化の影響で減少傾向にあるそうです。その少ないサケ・マスを、さらに人間が河口付近で捕り尽くしてしまう。一方、山は定期的にドングリ他の凶作に見舞われます。これではヒグマたちが農作物を荒らしたり、庭の果樹やゴミ箱を目当てに人里に降りてきたりするのも仕方ないような気がしますが・・・?

ヒグマは本来は臆病な動物

クマ科一般にいえることですが、クマたちは本来は臆病で用心深い動物です。あの巨体でなぜあんなにビクビクしているのかと、私なんかは不思議に思ってしまうほど、警戒心が強い動物です。

ヒグマの性格について、興味深い記述がありました。

私も子グマを育てていたが、人間の子よりずっと心遣いがあってやさしい。おっぱいもあげていたが、人間の子は強引だがヒグマの子はとんとんとリズミカルに前肢でツメの力を抜いて乳房を叩き、そっと吸う。なのでクマは力をセーブし、相手を思いやることができる、自制ができる、つまり人間よりはるかに大人であると、そのとき強く思ったのである。だから事故もめったになく、これだけ横暴な人間にも寛容に懸命に生きているのだと敬服する次第である。でなければあれだけのパワー、時速50kmものスピードで走れて、強力の持ち主なのだから、毎年何千何万人もヒトを殺そうと思えば殺せるだけの力があるのに、それをしないで静かに平和に自制して目立たないように謙虚に生きているヒグマは、やはり素晴らしい神様だと思うのである。
(第Ⅰ部第2章『ヒグマの飼育からわかること』前田菜穂子 page 27-28)

本当にそうですよ。クマがその気になれば、ヒトを殺すなんて一瞬です。ときどき「クマに襲われたが殴り返したらクマのほうが逃げて行った」なんて生存者の武勇伝が語られますが、ツキノワグマといえど、もし成獣が本気で襲うつもりでヒトを襲ったのであれば、とてもかなう相手じゃありません。ましてヒグマの成獣であれば。

2025年は、クマによる過去最高の被害数とさわがれて、人身被害件数209件、被害者数230人、うち死亡者数13人となっています(環境省「R07年度におけるクマの人身被害件数[速報値]」令和7年12月5日更新)。亡くなられた方たちのご冥福をお祈り申し上げます。

しかし、見方を変えれば、死亡者はたった13人。クマたちの実力を考えれば、相当にセーブされた数字とも言えます(だからといってクマ被害を軽視するつもりもありませんけれど)。もっとも、うち、北海道(ヒグマ)は人身被害件数5件、被害者数6人、うち死亡者数は2人と、他府県(ツキノワグマ)と比べて圧倒的に致死率が高いです。ヒグマ猟師が、あるインタビューで、突進してくるヒグマに素手で立ち向かうのはダンプカーに素手で立ち向かおうとするのと同じだと話しているのをきいて、あらためてヒグマの凄さを思いました。それでも襲われた人が全員死亡ではなかった。ヒグマたちが無駄な殺生を好む性格ではないことを物語っていると思います。

ヒトの方は、子グマが民家の柿の木に登っただけで、何が何でも殺そうと躍起になり、実際に殺しちゃっていますけれどね・・・(溜息)。

「異常」と「困った」とは違う

山中正美氏は「第Ⅲ部 第2章 知床、ヒグマと生きる地域社会を目指して」の中で、異常なクマとは何か、新生代ベアーズは異常か、と疑問を呈しています。そして、真の異常を見逃してはならないと警告しています。

山中氏によれば、異常なヒグマとは、「若い個体などが人に興味を持ってまとわりついてくるような場合や、ごくまれではあるが、はじめから人を捕食しようと狙ってくる(page 224)」ようなクマのこと。しかし後者のような異常な人食い熊は「北海道開拓開始後、百数十年のあいだに数例しか記録されていない(page 224)」そうです。

一方で、クマにとっては普通の行動であっても「異常」と誤解され、喧伝されている例が多い。しかし、その場所の自然環境や社会環境などさまざまな要素の組み合わせによっては、地域社会にとって「困った」状態になる場合が多いおこともまた事実である。ただ、本当に「異常」な場合と、「困った」状況とは峻別して考えなければならない。「困った」状況に対してはさまざまな対応をとりえるが、「異常」であれば即応してその問題の個体を取り除かなえればならないのだ。「異常」に気づかず、見過ごして放置すれば、事故発生の可能性が飛躍的に高まる。
(page 224)

2025年8月、知床の羅臼岳をジョギング登山中の男性がヒグマに殺されるという事件がおこりました。このヒグマは子連れだった上、相当に人慣れしていたという点で山中氏のいう「異常なクマ」に近づきつつある個体だったようです。そこへ、歩きではなくジョギングという、クマから見て「異常な人間」が近づいてしまった。そのために生じた悲劇だと思います。一方、山裾の民家の庭先で柿を食べるクマなどは「困ったクマ」にすぎないでしょう。さまざまな対応方法があるということです。ちなみに、うちの庭の柿にもよくクマが登っていますが、私は困ってさえいません。外に出るときはいつもより少し用心しようと思うだけです。

人々のクマに対するあまりにも過剰な恐怖心や誤解は、駆除だけに頼らない総合的な取り組みを難しくしている。それが地域社会としての冷静な対応を困難にし、駆除以外の対策を許容させない。
(page 229)

「地域社会」どころじゃありませんね。今は日本全体が過剰な恐怖心に覆われ、中央政府までも冷静な対応ができなくなっています。クマたちは今や指定管理鳥獣として積極的な捕獲対象となり、緊急銃猟制度により市街地での発砲駆除も許可されています。

そう、あまりに多くの人が、クマとは人さえ見れば目の色を変えて襲ってくる獰猛な奴と思っているようです。その一方で、ぬいぐるみのテディベア、「くまのプーさん」や「パディントン」のイメージの人も一定数存在します。山中氏は言います。

年間、数百件にもおよぶ出勤において、ヒグマと緊迫したやりとりを行う我々の経験からすれば、ヒグマは少々大きく神経質気味の「イヌ」と同じくらいの認識で十分と思える。クマの中にも怒りっぽかったりゴミなどに執着してたちの悪くなった困り者がいることもイヌと大差ない。もちろん決して侮ってはならないが、いかつい外見のイメージに惑わされず、冷静に考え、彼らとつき合うルールを正しく認識していれば、それほど恐怖に感じることもないし、逆にテディーベア扱いすることがいかに危険なことかもわかるはずである。
(page 229-230)

別のあるクマ研究者は、クマ対応は、「く」と「ま」の間に「る」を入れて「くるま事故対応」と同じように考えればよいと言っていました。車について我々は、まず、事故にあわないためにはどうするかを考えます。事故にあわない(ならない)ため、道路標識やガードレール等を整え、あらゆる工夫の安全装置を付け、そして運転中は最大の注意を払います。それでも事故ってしまった場合にようやく、「事故ったときの対応」を考えるのです。クマに対しても同じ。出会ったらどうするか、ではなく、その前に、出会わないためにはどうすればよいのかを、何よりも先に熱心に考え対策するべきだとその人は言っていました(ごめんなさい、お名前忘れました)。

またアメリカのヒグマ棲息地のヒグマ専門家はこう言っていました。我々の「ヒグマ対策」とはその90%以上が実は「人間対策」なのだと。クマ害をふせぐには、何よりも、人間がクマを知り、適切な対策をし、もし出会った場合は正しく対応することが肝心。クマをどうこうするではなく、まずヒトを正しく教育誘導する、それこそが我々の仕事であり最大のクマ対策なのだ、と。

本当にその通りだと思います。私自身がツキノワグマ棲息地に住む人間ですが、地域住民のクマに対する知識の乏しさに驚くこともあります。クマ被害にあわないためには、まず、クマをよく知ること。これは日本政府にも言いたいことですね。現在の駆除一辺倒な政策を考え直し、もっと本気で共存を図ってほしいものです。

 

さすがと思ったこと

この本を読んでいて、とても気持ちが良く、信じられると思ったのが、各章の末尾にあげられた詳細な参考文献リストです。章によっては参考文献リストが数ページにもわたって列挙されているものもありました。

さすが北海道大学出版会の出版物!

これだから私は紙の本を重宝せずにはいられないのです。今の時代、ちょっと検索すれば、知りたい情報のほとんどが得られます。検索しないまでも、AIに質問するだけで答えは返ってきます。

でも、それらの情報や知識、どこまで信じて良いのか?誰が、どこで、どうやって手に入れたものなのか、いつ、どんな方法で発表したものなのか?さっぱりわからない事例があまりに増えていきました。

とくに、個人が発している情報について。

本当にわかりません。その人本人の調査結果なのか、誰/どこからか許可を得て引っ張ってきたものなのか、それとも、無断引用や又聞きや、単なる聞きかじり/読みかじりの不確か情報なのか。

公共機関や、名の通った企業や団体、大学、研究機関等のサイトから得られる情報以外は、私は簡単には信じられません。いくつものサイト、しばしば外国のサイトも調べて、複数の情報源が同じ結果を出していることを確かめて初めて、その情報は正しい(らしい)と安心することができます。まあ、個人サイト/SNSでも、参照元がきちんと明記されていてリンクも貼られていれば、そしてその「参照元」が信用できそうな機関であれば、信用しても大丈夫でしょうけれど。

さらに、もうひとつ。検索では得られない、紙の本ならではの楽しみ。

たとえば本著では、北海道の川のことやシマフクロウのことなどの章があります。一見ヒグマとは関係なさそうな、川(地理的存在)やシマフクロウ(鳥類)ですが、読めば、川のあり方やシマフクロウの存在がヒグマと密接に結びついていることがよくわかります。けれども、こういう気づきって、ネットではなかなか得られないんですよね。検索って、ヒグマ情報ばかりがピンポイントで上がってきて、他のものは全部範疇外。これでは狭く偏った知識しか得られません。シマフクロウの「シマ」が「縞」ではなく「島」由来だということは、この本で初めて知りました。

紙の本を発行するという文化が途絶えることがないよう祈ります。

ヒグマの話ではないが・・・

ところで、ヒグマの話ではありませんが。

青森県は、『青森県第二種特定鳥獣管理計画(第1次ツキノワグマ)』(令和7年11月)で、津軽半島のツキノワグマたちを絶滅させようとしています。

津軽半島には太古からツキノワグマが生息していました。それは、遺跡から出土する品からもわかります。

 

『ヒグマ学入門』

 

『ヒグマ学入門』

 

この通り、青森県全土から、クマの造形物が出土しているのです。クマがこの地に生息していた証拠です。

その後、人間活動により一時的に津軽半島からクマが消えました。そのクマたちが近年、また戻ってきました。

青森県は、やっともどってきたクマたちを、また絶滅させようとしています。さらにニホンジカに至っては、青森県全土から絶滅させようとしています。

この件につきましては、下に詳しく書きました。お読みいただければ幸いです。

※著作権法に配慮し、本の中見の画像にあえてボカシをいれる場合があります。ご了承ください。

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目次(抜粋)

第Ⅰ部 ヒグマの自然史

  • 第1章 ヒグマの生態(佐藤喜和)
  • 第2章 ヒグマの飼育からわかること(前田菜穂子)
  • 第3章 ヒグマの多様性と進化(増田隆一)
  • 第4章 北海道におけるヒグマ研究の歴史(間野勉)
  • 第5章 ヒグマを支える川(稗田一俊)
  • 第6章 ヒグマとシマフクロウ(竹中健)

第Ⅱ部 ヒグマと人類史

  • 第1章 ヒトとヒグマの考古学――――”儀礼行為”を遡る(小野裕子)
  • 第2章 日本の古代社会とクマ信仰(関口明)
  • 第3章 クマと人間の儀礼的関係――――動物の魂送り(谷本一之)
  • 第4章 クマはなぜ敬愛・畏敬の念を抱かれるか(天野哲也)
  • 第5章 クマをめぐる神話・伝承・――――アーサー王伝承を例に(渡邊浩司)
  • 第6章 ヒグマの民族(ジャン・ドミニク・ラジュー)

第Ⅲ部 ヒグマと現代社会

  • 第1章 ヒグマの今――――世界のヒグマ日本のヒグマ おの現状と共存への課題(間野勉)
  • 第2章 知床、ヒグマと生きる地域社会を目指して(山中政美)
  • 第3章 ヒグマと法律(畠山武道・間野勉)
  • 第4章 アメリカにおけるグリズリーベアの保護と日本が学ぶこと(市川守弘)

『ヒグマ学入門』

自然史・文化・現代社会

  • 編者:天野哲也 増田隆一 間野勉
  • 出版社:北海道大学出版会
  • 発行:2006年
  • NDC: 489.57(動物学)
  • ISBN:9784832976916
  • 273ページ
  • カラー口絵、モノクロ画像
  • 登場ニャン物:-
  • 登場動物:ヒグマ
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