ディー・レディー『あたしの一生』
副題:猫のダルシーの物語。
100%猫の視点から書かれています。必要以上の擬人化はゼロです。
ダルシーが心から愛している“あたしの人間(=飼い主)”が話す人語は、ダルシーには一部しか理解できませんし、第一名前すら知りません。
他猫は、名前だけはわかりますが、猫同士言葉を交わし合う場面は出てきません。
じっと観察し感じ取るだけです。猫のことも、人間のことも。
それにしても、なんて純粋でひたむきな愛なのでしょう。
うちの猫が、こんな思いで自分を見つめているのかと思うと、あだやおろそかには出来なくなります。
こんなにまっすぐに、ただひたすらに「愛している」だけを伝えている本が他にあるでしょうか。
「読んで号泣した」というカキコをよくみかけるのは頷けます。
しかし、私には泣けませんでした。
欧米的価値基準と、日本人である私との価値基準の差とでもいうべきでしょうか。
“あたしの人間”は、最初から一人暮らしの女性です。
一人暮らしを承知で猫を求め、しかし、クリスマスだサマーキャンプだと2週間も旅行に行ったりします。
その間ダルシーはペットホテルの金属製の檻の中か、慣れないペットシッターにお預けです。
(最後はキャンプに同伴しますけれど。)
私なら、猫がいたら2週間もキャンプに行ったりは絶対にしません。
毎年キャンプに行きたいなら、一人暮らしで猫は飼いません。
同居家族(人間の)がいて、いつもと変わらぬ世話をきちんとしてくれるという保証があるならば、1,2泊なら行っても良いですけれど。
それから、安楽死の問題です。
欧米では安楽死はむしろ恩恵として広く認められていますが、日本人の私はどうしても違和感を感じてしまいます。
彼らは、猫や犬に、将来的には致命的となるであろう治療困難な欠陥が見つかった時点で、簡単に短絡的に安楽死させてしまう傾向があるようです。
その態度を見ていると、どうしても「苦しむのは可哀想だから」ではなく、「苦しんでいるペットを見るのは自分が嫌だし、世話も大変だし、お金もかかるし」という理由からだとしか思えません。
キリスト教的人間万能感があまりに強い上、個人の権利意識が強大で、たとえ我が子のためだろうと、自分を犠牲にするなんてまっぴらごめん、という意識があるようです。
「家族のために犠牲になることこそ最高の美徳だ」という日本人的考え方にも、全然納得できませんけれど。
ダルシーは、17歳まで生きて、様々な看病を受けますが、ダルシーの愛する「あたしの人間」は常に安楽死を考えていますし、結局最後は安楽死で殺されます。
安楽死という選択との間で揺れ苦しみながら、でも最後は愛する人間の腕の中で自然死、なのであれば、私はボロボロ泣いたでしょう。
しかしダルシーがけなげであればあるほど、なんか欧米的考え方に反発を感じてしまって、素直に泣けませんでした。
(2002.4.10)
※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。
『あたしの一生』
猫のダルシーの物語
- 著:ディー・レディー Dee Ready
- 訳:江國香織(えくに かおり)
- 出版社:飛鳥新社
- 発行:1992年
- NDC:933(英米文学)アメリカ小説
- ISBN:4870314274 9784094062625(小学館文庫)
- 189ページ
- 原書:A Cat’S Life:Dulgy’s Story; c1992
- 登場ニャン物: ダルシニア(ダルシー)、ナターシャ、バートルビー、タイバルト
- 登場動物: -