カーソン『沈黙の春』

世界を動かした一冊
人間は昔から虫に悩まされてきました。
狩猟採集時代はまだよかったのです。刺されて痒いとか痛いという程度で、昔は蚊がマラリアを媒介する等の知識はなかったでしょう。
しかし、農耕が始まると同時に、痒い程度では済まされなくなりました。虫たちは人が苦労して育てている作物を食い荒らします。しかし小さな虫の駆除は大変です。膨大な数でやってきますから、一匹ずつ捕っていたのではとても太刀打ちできません。農民達は、神に祈り、様々な儀式を行い、ときには生贄を捧げたりして、虫を防ごうとしました。

そんな人類が、自然界には存在しない薬物を化学合成で作り出すようになり、状況は一変した・・・かのように見えました。有名なDDTをはじめ、クロルデン、アルドリン、パラチオン、マラソンなどの殺虫剤の数々。農民達も政府も、そしてもちろん製薬会社も、大喜びで大量の農薬をまき散らしはじめました。農民達は、鋤や鍬のかわりにスプレーをもって農地に繰り出すようになりました。さらに飛行機から、広大な土地に大量の農薬を満遍なくまき散らすことも、ふつうに行われるようになりました。人間が邪魔だと考えた、たった1種かそこらの “害虫” を撲滅するために、大量の農薬の雨をふらせたのです。
その影響はたちまち現れます。鳥達も動物達も魚達も姿を消しました。家畜たちが病気になりました。もちろん、人体も無事では済まされません。様々な症状が出、死亡する人も出てきました。
なのに、肝心のターゲット、撲滅したかった “そのたった1種の害虫” は、一時的に減少するだけで、たちまち復活してしまうのです。農薬で宿敵が減った分、以前にも勢いをまして。別の “害虫” が出現する場合もあります。その新種は旧種よりも厄介で、薬物抵抗性が高く、駆除しにくい種類と決まっています。
カーソンの『沈黙の春』はそんな時代に発行されました。最初の10章は、農薬散布により野生動物・家畜・自然にどんな影響が出たかを、これでもかと詳しく解説。そのあとは、人体や、人間社会に与える影響などが描かれています。
この本は出版されるや、たちまち大反響をよびました。当然、この本が良書だったからではありますが、それ以上に、すでに多くの人々が気づいていたことがこの本で明文化されたからでしょう。内心では変だ怖いと思っていたことが、この本でスパっと明るみに出たからでしょう。
『沈黙の春』が世に出たのは1962年、今から約60年も前の話です。使われる農薬は、当時とはかなり異なってきました。”安全性” も、当時より厳しい基準で管理されるようになったとされています。
しかし、本当に安全なのでしょうか?
カーソンの言葉を書き出します。長いですが、しっかりお読みください。
ひとつひとつの薬品について汚染の最大限許容量を管理局ではきめて、《許容量》と呼んでいるが、この方法にも明らかな欠点がある。許容量も、時と場合によっては、ただ名目上の安全にすぎず、また一度許容量をきめてしまうと、あくまでそれにこだわる傾向もある。私たちの食物に毒をふりかけてもよろしい。安全な一定量までは―――このおかずにもちょっと毒を、あのおかずにもちょっぴり。毒が安全だなんて、食物に毒をふりかけるほうがいいなんて、へんなはなしだ。食糧薬品管理局が許容量をきめたときには、実験動物をつかっている。あらかじめ動物で試験して大丈夫なら安全だ、という考え自体がおかしい。手入れの行きとどいた人工的な状態で飼育されている実験動物は、ある特定の一つの化学薬品をあたえられるだけで、いろんな殺虫剤に何回となく触れる人間とは、条件がひどく違う。そればかりか、人間の場合、殺虫剤にいつ触れたものやら、覚えもなければ、またその量をはかることも難しい。おひるのサラダのレタスに七ppmのDDTがついていたとしよう。そのくらいの分量なら《安全だ》という。でも、そのほかいろんなおかずがあって、それぞれ許容量の残留物を含有していたらどうなるのか。そしてまた、食糧という経路で私たちの体に入る化学薬品は、全体のごく一部にすぎない。いろんなところから潜入してくる化学薬品の蓄積量はどこまでふえてゆくのか、だれにも分からない。だから、この程度までなら安全だ、などといっても、意味がない。
(page 152)

日本は農薬残留大国
この本が書かれた時代より、現代の方がもっと多くの化学薬品や合成物質であふれています。夢の素材として重宝されてきたプラスチックさえ、マイクロプラスチックという問題があるとわかりました。とくに我々日本人。日本人は世界一清潔な民族だ、なんてよくいわれますが、それは目に見える範囲だけのこと。化学薬品汚染度でいえば世界でもトップクラスに汚染されています。なにしろ日本人は、見た目の清潔さを保つため、洗剤をジャブジャブ使いますし、ゴキブリ1頭がでただけでヒステリックに殺虫剤をまき散らしますし、あらゆるものが抗菌されています。「日本人の死体は腐らない」なんてジョークが海外でささやかれるほどです。
さらに、食べ物も。日本の食べ物は化学薬品まみれです。
中でも、実は農作物がひどい。日本産の野菜は “安全” だと信じている人は多いですが、とんでもないんです。元凶は政府です。
世界的に農薬や除草剤の使用規制が強まる中、日本だけ、2015年頃から、逆につぎつぎと規制緩和しました。たとえば、2015年5月にはクロチアニジンとアセタミプリドの残留基準値が大幅に緩和、同12月には新規にフルピラジフロを承認、2016年6月にはチアメトキサムの残留基準値を緩和、という調子です。その結果、現在の日本は世界一の農薬残留大国となってしまっています。
どのくらいの農薬残留度かといいますと、
にもかかわらず、日本は禁止どころかネオニコチノイド系の農薬の食品の残留基準をむしろ緩和しているのですから驚きです。というよりこれはわざとやっているのだと知るのが重要になります。実際2015年にネニコチノイド系の農薬のクロチアニジンの残留基準値を従来と比べ、ホウレンソウは約13倍、シュンギクは約50倍にも緩めているのです。
世界と比べても、ネオニコチノイド系の農薬のアセタミプリドの日本の残留農薬基準値は、ブロッコリーは2ppmでEUの5倍、ブドウは5ppmでEUの10倍、イチゴは3ppmでEUの60倍、茶葉は30ppmでEUの600倍といずれも、日本がずば抜けて基準値を上回っていることがわかります。今の日本の野菜をヨーロッパに持っていったとしたら、おそらくほぼすべて犯罪になるでしょう。
ミツバチをも殺す殺虫剤をたっぷり浴びた作物は、どれほど洗ったとしても細胞までしみ込んだ農薬を洗浄しきることは不可能です。農薬は強力な神経毒であり、あらためて農薬まみれの作物を身体に取り込む恐ろしさを思い知らされます。
(うつみ さとる ブログ『農薬使用の規制緩和が、ヤバい』 2024/6/12)
除草剤についても。日本でもっとも多く使用されている除草剤は「ラウンドアップ」でしょう。「ラウンドアップ」の有効成分グリサホートは、日本では規制されていません。だからでしょう、私がいつも利用しているホームセンターでは、この「ラウンドアップ」のCMが、毎日、一日中、館内放送で流れています。棚にはズラリと並んでいます。農家はもちろん、猫の額ほどの狭い庭しかもたない都会人でさえ、便利だと使っている除草剤です。
この「ラウンドアップ」の公式サイトをみますと、安全性について、こんな風に書かれています。
(前略)「量と作用の関係」というのと、それから一日摂取許容量、という2つの要素があるというように言えます。よく週刊誌なんかで出てくる「パンで検出された量」というのは、細かい数字で言うと0.1から1.1ppmという量。
これは0.1から1.1mg/kg程度の量ということになりますけれども、これは一日摂取許容量からいうと、(体重50キロの)大人だったら1日50mg。体重15キロの子供だったら15mgということになるわけですけれども、それを超えなければいい。
そのパンをどれだけ食べたら一日摂取許容量を超えるのか、こういう計算をしてみれば安全性がわかるということになります。
(ラウンドアップ・マックスロード公式サイト『 パンやお菓子からグリホサート成分がごく微量検出されたとしても、 一日摂取許容量(一生の間、毎日食べ続けても安全な量)以内なら安全性は守られている』)
でも、本当に安全なの?日本人が口にする可能性がある薬品が「グリホサートだけ、それ以外は一切ない」とかならともかく?先に引用したカーソンの言葉を思い出して下さい。
現在、グリサホートの使用を禁止/規制する国が少なくないのはなぜでしょうか(デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フランス、オランダ、ベトナム、ほか)。
また、これが一番重要だと思うのですが、人間だけでなく、自然全体の生態系のバランスを配慮した場合はどうなんですか?禁止している国々は、そこまで踏み込んで禁止決議しているようですけれど。
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ヒアリが日本まで来たのはカーソンのせいではない
『沈黙の春』の現在の評価などを検索して、驚いたことがあります。それは「カーソンのせいで日本にまでヒアリが来た」とか「『沈黙の春』のせいでマラリアが今もはこびっている」等の論です。このようなことを書いている人たちによれば、カーソンが殺虫剤を糾弾したせいで、DDT等が使用禁止になり、その結果、ヒアリや蚊に今なお悩まされているのだ、というのです。
その人達は、この本を読んでいないのでしょう。
カーソンが糾弾したのは、あくまで、「たった1種かそこらの”害虫”を殺すために」「自然界のバランス等を考慮せず」「自然界には存在しない化学薬品を無差別に大量に使うこと」です。
ヒアリとマイマイガは、アメリカ合衆国にとっては外国からはいってきた昆虫ですが、アメリカに棲みついてすでに長い年月がすぎていました。そのヒアリとマイマイガを駆除しようと、農務省防除局が突然「向うみずな大がかりな散布(page 132)」を始めました。そして失敗しました。
カーソンは、どんな散布が行われ、どのように失敗したかを詳しく書いているだけです。駆除するな、なんてことは、ひとこともいっていません。のみならず、ヒアリの効果的な防除方法まで書いています。日本にヒアリが来たのはカーソンのせいではありません。
効果が十分あって、しかも費用がかからない局部的な棒状方法は、ずっとむかしから行われてきたのだ。fire antは土まんじゅうの巣をつくる習性があるから、一つ一つの巣に化学薬品を撒いていけばいい。その費用は一エーカーあたり約一ドルにすぎない。土まんじゅうがたくさんあって、一つ一つ手などでやっては間に合わないときには、まず耕作機で土まんじゅうの山をならし、それからじかに化学薬品をそのうえに撒布する方法もとられてきた。ミシシッピの農事試験場が考え出した方法だ。こうすれば、九十パーセントから九十五パーセントの蟻が駆除できる。しかも、一エーカーにつき〇・二三ドルという安さだ。これにくらべると、農務者の大量防除計画では、エーカーあたり三・五ドルもかかる。いちばん高くつき、損害もいちばん多く、しかもいちばん効果があがらない。
(page 144-145)
『沈黙の春』のせいでDDTが禁止され、結果マラリアが流行したというのも濡れ衣です。本をちゃんと読めば、蚊がたちまちDDTに耐性をもったことも書いてあります。マラリアに対抗するには、人間用のワクチンなり特効薬なりを開発するしかないのです。蚊を農薬で絶滅させろなんていうのは、あまりに愚かで無思慮な発想としかいえません。

最後も、レイチェル・カーソンの言葉でしめくくらせていただきます。
《殺虫剤》と人はいうが、《殺生剤》といったほうがふさわしくないのか。
(page 18)
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※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。

目次(抜粋)
- 前書き
- 一 明日のための寓話
- 二 負担は耐えねばならぬ
- 三 死の霊薬
- 四 地表の水、地底の海
- 五 土壌の世界
- 六 みどりの地表
- 七 何のための大破壊?
- 八 そして、鳥は鳴かず
- 九 死の川
- 十 空からの一斉爆撃
- 十一 ボルジア家の夢をこえて
- 十二 人間の代価
- 十三 狭き窓より
- 十四 四人にひとり
- 十五 自然は逆襲する
- 十六 迫り来る雪崩
- 十七 べつの道
- 文献
- 解説
『沈黙の春』
- 著:レイチェル・カーソン Rachel Carson
- 訳:青樹簗一(あおき りょういち)
- 出版社:新潮社
- 発行:1987年
- NDC:519 公害、環境工学
- ISBN:9784105197018
- 403ページ
- モノクロイラスト
- 原書:”Silent Spring” (c)1962
