玄侑宗久『禅的生活』

玄侑宗久『禅的生活』

 

仏教についての入門書に最適。

猫サイトに『禅的生活』の書評とはこれいかに。

もちろん、書くつもりで買った本ではないのだが、読んでみたならば・・・
著者の愛猫タマと愛犬ナムの名前が頻繁に出てくる。こう繰り返されちゃ、書かないわけにはいかないじゃないか。やれやれ。

というわけで。

著者はまず、なぜ「迷い」が生じるかを説く。

人間なら誰しも「迷い」がある。どうすれば「迷い」を吹っ切れるか。心を意識すること、自分の中の無限な可能性に気づくこと、とらわれないこと。それから、脳の仕組みについて、その他その他。妄想を払うということは、人間にとって、まことに難しい。

ところが、ふと見下ろせば。

犬や猫の方が、人間の我々より、よほど「妄想」から「自由」であるようにみえるではないか。

むろん直接聞いたわけじゃないから定かではないが、(中略)全く羨ましいほどの「心」のありようではないだろうか。
(p.24)

いやいや、そんなはずはない、人間は犬猫より一段高い場所にいるはずだ。著者は必死に、ひとつひとつ段階をあがりながら、人間の心の在り方、禅における「お悟り」の在り方を論じる。ほとんど弁解じみてみえるほどに。

そして、そうとう高いところまで登って、やっと少し安心する。

思えば僧堂生活は掃除をはじめ洗濯・炊事・草引き・剪定など、いわば日常生活の訓練そのものの日々だった。額に汗して働くことこそ禅にとっての「和光同塵」なのである。(中略)
それもともかく、タマもナムも、ここまで来ると従いてこれないはずである。悔しかったら額に汗をかいてみろ、と言いたい。(後略)
(p.154)

たしかに、犬はともかくとしても、飼い猫はあまり働かないかも知れない。
しかし、と、私はここで無謀にも禅僧に楯突いてみる。

猫にとって洗濯とは、毛づくろいのことだ。これは人間よりよほど日々熱心にやっているのは誰だって知っている。炊事とは、猫にとっては餌探しのことで、昔ならねずみ取りだろうが、現代の飼い猫は飼い主が餌探しも後片付けも全面的に引き受けてしまっているのだから、猫はしたくともしようがない。炊事を引き受けてくれる飼い主がいないノラネコは、現代でもそれこそ一日中、足を棒にして餌探し=炊事に励んでいる。

そして、草引きや剪定。

これは不要だろう。地面に草が生えている、それを不要と思い引いてしまうのは、あくまで人間ひとりの価値判断であり、自然界全体の価値とは関係ない。剪定もそうだ。その枝を邪魔だ不要だと見なし切り取るのは、あくまで人間側の都合である。自然界全体の価値とは関係ない。

そして猫は、人間と違い、そのような勝手な価値判断は下さないから、草を引いたり剪定したりしないというだけである。この、勝手な価値判断を下さないことこそ大事と、著者ご自身が少し前に書いておられるではないか。『比較しないままになんの判断もせずに世界を受け容れ(p.83)』るべきだとか、『住することのない心には、対象の佳さがそのままストンと飛び込んでくるということだ。柳は緑で花は紅。ともに素晴らしい。(p.84)』とか。

猫は、そこに生えている草も、伸びている枝も、そのままで受け容れる。いや、猫だってどうしても不都合と感じた場合は、多少は外部に手を加えることもある。寝る前に寝床をひっかいて均すなどがそうだ。しかしそれは自分が寝て丸くなる最小の面積に限られ、人間みたいに、自宅の玄関の外の道路の向こう側の空き地の草まで引くような、そんな差し出がましいことはしない。

著者は、お悟りや禅や精神の在り方について、どんどん深く述べていく。そして最後に究極の心的状況とでもいうべき、「風流」にたどり着く。

ここでいう「風流」とは、あくまで禅で言う「風流」のことで、一般に使われる「風流」とは少々趣を異とする。が、私は禅僧ではないし、ここは猫サイトだから、言葉の難しい解釈ははしょらせていただく事にして(汗)、最後に至って著者はようやく、「志」や「風流」の閾まで達せられるのはやはり人間だけと安心するのである・・・しようとする・・・が、・・・あらためて愛猫と愛犬の姿を観察すると。

まさかこいつら、風流がわかるんじゃないだろうな・・・・・。まるで最後の砦に敵を発見したような驚きと不安とを、私は感じていた。
(p.222)

にゃはは~
そうなのだ、著者は結局最後まで、人間の心の優位性を確信できずに終わるのだ。そして私としてはそんな著者にニンマリし、好感を覚え、深く共感せずにはいられない。

ああだけど、私と著者の間には決定的な違いも存在する。

それは私の方は最初からスポンと「猫の方が悟っている」と信じているということ。この一点は私にとっては全く疑いようもない真実だから、我が身を憚らずに言ってしまえば、著者の「迷い」が面白いとさえ思えてしまうのである。
猫の方が上でいいじゃないか。どうしてそんにゃ事を苦にするにょ?

さて、本全体の感想を述べれば。

私は、仏教も禅も何も知らない。まったくの無知だ。また生まれ育った家には仏壇ひとつなかった。

その私が、この1冊で俄然「禅」に興味を持ってしまった。

そのくらいに、この本は良かった。わかりやすかった。説得力があった。変な意味での仏教臭さがまったく無く、禅のぜの字も知らぬ私でさえ、ぐいぐい引き込まれて読んで、そしてなんとなく・・・あくまでなんとなくだけど・・・理解の入り口を一瞬のぞき込めたような、そんな満足感さえ与えてくれた。芥川賞作家の肩書きはダテではなかった。単なる解説書にはないストーリー性があった。すなおに読めて、そしてすごく面白かった。

で、猫サイト管理人として、さらにあえて猫にこじつけて読めば。

猫同居人の皆さんにも、この本は為になるのではないかと思う。人間という生き物がどれほど我に囚われた、ガツガツで愚かな生き物か。執着心を捨て、我を捨て、「もののありのままの姿」を見て感じるということが、人間にはどれほど難しいことか。それをあらためて思い出すだけでも、大変に価値がある。
そして目のくもりを少しでもぬぐって、新しい目で猫達を眺めれば、愛猫をより深く理解できるようになるかもしれない。

(2010.2.11.)

玄侑宗久『禅的生活』

玄侑宗久『禅的生活』

 

※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。

 

『禅的生活』

  • 著:玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)
  • 出版社:ちくま新書
  • 発行:2003年
  • NDC:188(仏教)各宗
  • ISBN:9784480061454
  • 237ページ
  • 登場ニャン物:タマ
  • 登場動物:ナム(犬)

 

目次(抜粋)

はじめに

一、なぜ「迷い」が生じるのか
決めつけてはいけない 無可無不可
好き嫌いという関所 一切唯心造
感覚では捉えきれない世界 六不収
「悟り」の周辺の景色 廓然無聖
妄想からの解放 応無所住而生其心

二、悟った人にはどう見えるのか
ありのままの世界 柳緑花紅真面目
濯ぎが大事 一物不将来

三、日常をどう生きるか
因果をどう受け止めるか 日日是好日
役割を生きる 随所作主立処皆真
娑婆に徹する覚悟 平常心是道

四、あらためて「私」とは何者なのか
生活習慣が自己を形づくる 知足

五、風流に生きる
まず「志」を立てる 安心立命
「ゆらぎ」を楽しむ 不風流処也風流

あとがき
禅語索引

 

著者について

玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)

福島県生まれ。慶応義塾大学文学部中国文学科卒業。1983年より天竜寺専門道場にて修行。現在、臨済宗妙心寺派福聚寺副住職。また、2001年「中陰の花」で第125回芥川賞受賞。小説著書に『水の舳先』『アブラクサスの祭』『化蝶散華』『アミターバー--無料光明』(以上、新潮社)、『中陰の花』『御開帳綺譚』(以上、文藝春秋)、その他著書に『玄侑宗久ちょっとイイ人生の作り方』(KTC中央出版)、『私だけの仏教』(講談社+α新書)、『まわりみち極楽論』(朝日新聞社)、『あの世 この世』(瀬戸内寂聴氏との対談、新潮社)などがある。

(著者プロフィールは本著からの抜粋です。)


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玄侑宗久『禅的生活』

5.5

猫度

1.5/10

面白さ

8.5/10

考えさせらえる

9.0/10

猫好きさんへお勧め度

3.0/10

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