ルナール『にんじん』

ルナール『にんじん』

児童虐待が問題化している今、再読したい本。

このあまりに有名な小説を、はじめて手に取ったのは、たしか小学校中学年の時だったと思う。

たちまち背筋が震え、あわてて投げ出した。
なんて恐ろしい小説だろう!
最初の、ほんの数ページを読むのがやっと、それ以上はとても読めなかった。
こんな残酷で不気味な本が「児童文学書」として、「がんばれヘンリーくん」や「ながくつしたのピッピ」と並んで置かれているなんて、いったいどういう事だ!
選者の大人はどんな神経をしているんだ?

強烈な印象、火傷のようにヒリヒリするものだけが残った。
それが『にんじん』と私の初対面だった。

以来、ずっと敬遠していたが、30代で再読した。
今回は最後まで読めた。

きっかけは、山岸凉子作『赤い髪の少年』を読んだことだった。
山岸氏の作品では、にんじんには「良き理解者のおじさん」が登場する。

ああ、では、にんじんは最後は救われるのか!
それならと、原作を読んでみたのである。

原作に、そんな良き理解者は登場しなかった。
「良き理解者のおじさん」は山岸氏の創作、他の山岸作品にもよく登場する「良き理解者の大人」のひとりにすぎなかった。

しかし、それに近い人物は登場する。
名付け親の、孤独な爺さんである。

この爺さんは誰も愛していないが、にんじんだけは「我慢できる」。
それどころか、爺さんなりにとても可愛がっているといえよう。
にんじんも爺さんには素直に甘える。

もうひとつ、多少は救いになるかと感じられたのが、にんじんの実母であるルビック夫人が、まともな母親ではないことを、爺さんをはじめ周囲の人間はわかっているらしい、ということ。
ルビック夫人はひどい女ではあるが、それをあまり隠さない程度の正直さは持ち合わせている(多少は隠蔽しようとするのだが)。
そしてそれはルビック氏にしても同じである。
てんで無理解で自己中心的で父親としてはまったく失格なのだが、にんじんと対話しているし、おのれの愚かさを無理に糊塗しようとはしない。

もしこの二人がもっと偽善者で、他者の前ではどこまでも良い親を演じたがる虚栄心の塊だったなら、にんじんはもっと追い込まれていたのではないだろうか。

その上、あの時代はルビック氏の言うとおり

『家は変えられる。われわれ親同胞(おやきょうだい)と縁を切ることもできるんだ。』
(p.241)

家出さえすれば、現代のように、便利に発達しすぎた通信網や交通網のせいでどこまでも追い回されるという不便さもなかったのだ。

かくて30代になってはじめて通読できたとはいえ、『にんじん』は、良い印象とは程遠かった。後味の悪い、苦しくて無残なもの、嫌悪感と恐怖感ばかりが澱のように残った。

なのに懲りずに、また読んだのである。

一文読むごとにつかえて、なかなか先に進めない。
いい歳の大人になった今でさえ、心臓を凍った手で弄り回されるようなおぞましさに身震いし、何度も中断する。
それでも読み切ったのはやはり歳の効か。

ネットで書評を拾い読みしてみた。

たとえば、「にんじんだけメロンをもらえない、可哀想」という感想がある。

それもそうだが、私は同じ章の、こちらの文章の方が気になる。心に引っかかる。

『好き嫌いは、こうやって、人が勝手に決めてくれる。』
(p.31)

・・・私の古い記憶がフラッシュバックする。
母親と洋服を買いに行った。例によって、彼女の言う「女の子らしい」フリフリピンクを選ぼうとするので、私はエンジ色の方が良いといった。とたんに母親は目を三角にして言い放った。
「あんたが何色を ‘好き’ か、あんたなんかより、お母さんの方がずっとよく知ってます!」
その時、私は高校生だった。

フリフリピンクだけは避けたかったので、仕方なく母親のもうひとつのお勧め「学生らしい青」を選んだ。
けれどもそれは、目にも鮮やかな原色ブルーだった。
その色のどこが「学生らしい」のか、私には理解できなかった。
そして誰がどう見ても、私はフリフリピンクや原色ブルーが似合う娘でもなかった。
私は周囲に「服の趣味が変な子」として有名だった・・・

結局、私もにんじんと同じだったのだ。

大体において、母親が好きなものだけを好きとしておかなければならない。
(p.31)

脱線してしまったが、つまり、私が『にんじん』を恐れるのは、自分と重なる部分が多々あるからである。

だから、猫を殺すというおぞましいシーンでも、私はにんじんを責める気にはなれない。
むしろ、にんじんの心の震え、怯え、絶望が洪水のように襲ってきて、深い同情さえ覚えるのである。

ザリガニを捕るのには、鶏の臓物や牛豚などの屑より、猫の肉が一番いい。
(p.153)

そう聞いたにんじんは、『年をとり、病みほうけ、そこここの毛が抜け落ちているので、誰も相手にしない』猫を鉄砲で撃つ。
猫はなかなか死なない。
にんじんは最後には血だらけの猫を両腕で抱きかかえ、『歯を喰いしばり、血を湧き立たせ、ぎゅっと首を締めつけた。』
そしてその夜、病んで伏す。
悪夢にうなされる。
にんじんの苦しみは無視され、(そもそも誰も苦しんでいたことに気づかない)、 ´残虐性′だけが、『家族の夜伽』となっていく。

『にんじん』という小説の中でも特に残酷な1シーンである。
そして、なぶり殺しに殺されるのは、猫である。
通常の私なら、身を震わせるほどに激しい怒りを覚えてしかるべき場面である。

なのに、私には、にんじんの悲しさしか感じられない。

誰にも相手にされない、病み衰えた猫。
それを「殺す」ことで、にんじんは何を殺そうとしたのか。

(2011.10.10.)

ルナール『にんじん』

ルナール『にんじん』

※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。

『にんじん』

  • 著:ジュール・ルナール Jules Renard
  • 訳:岸田国士(きしだ くにお)
  • 出版社:岩波書店 岩波文庫
  • 発行:1950年
  • NDC:953(仏文学)小説
  • ISBN:9784003255315
  • 268ページ
  • 原書:”Poil de Carotte” c1894
  • 登場ニャン物:(無名)
  • 登場動物:-


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