曲亭馬琴『南総里見八犬伝』其の三:絵から抜け出た妖虎

南総里見八犬伝

無瞳子の虎(ひとみなしのとら)

昔、宇多天皇が生きた虎を送られたことがありました。天皇は巨勢金岡(こせのかなおか)という画聖に、写生させます。金岡は百日余も通って何十枚もの下画を重ねた後、とうとうある画を仕上げました。怒り狂ったその虎は、迫力満点。しかしなぜか瞳が描かれていません。天皇が尋ねると、金岡は、それは自分が虎の精神をもすっかり画に写し取ってしまったからだと答えました。魂を抜き取られた虎はじきに死ぬであろう。すると画虎が絵の中から脱出して人を襲うかもしれない。そうならないよう、あえて目の玉を描き入れなかったのだ、と。

虎はその言葉通り、突然死んでしまいました。

こうして、その画「無瞳子の虎(ひとみなしのとら)」は、目の玉を掻き入れられることなく、保管されたのです。

怪虎、画から飛び出す

数百年後。

この名画は、竹林巽風(たけばやしそんふう)という画家の手にありました。この男、かなり悪い奴です。なぜこんな男の手に渡ったかは、奸計あり妖術あり殺人ありと複雑で、すみませんがここでは割愛させていただきます。

巽風はこの名画を、幕府管領の細河政元(ほごかわまさもと)に売ろうとします。政元は画の由来も聞きますが信じず、瞳がないままでは欠損品みたいなものだから描き入れろと巽風にせまります。屈強な力士達に囲まれた城中ではあり、仕方なく巽風は瞳を描き入れます。

とたんに白額斑毛(はくがくまだらげ)の大虎が飛び出し、巽風をかみ殺し、力士達をなぎ倒して、城外に逃げてしまいました。

京の街は恐怖の渦に巻き込まれました。虎は都のあちこちに出没して人を襲います。武士たちがかき集められ、鉄砲竹槍はもちろん大銃(おおつつ=大砲)まで引き出して、大軍で虎退治にあたりますが、成功しません。賞金狙いの命知らず共も次々と虎狩りに出ますが、皆やられてしまいます。

南総里見八犬伝
画虎、飛び出す
虎部分アップ

犬江新兵衛、虎を退治する

そのとき、犬江新兵衛は、里見殿のお使いで、たまたま京に来ていました。すぐ帰るつもりだったのですけれど、細河政元が新兵衛をすっかり気に入ってしまい、なんとか自分のものにしたいと、甘言ご馳走プレゼントの山で、城に軟禁状態です。新兵衛は、政元につかえる気はさらさら無いのですけれど、なんせ相手は幕府の高官、下手にご機嫌を損ねては安房の里見家にも弊害が及ぶかもしれず、どうにも動けません。

そこへ、この虎騒動。

万策尽きた政元は、新兵衛に虎退治を頼みました。新兵衛は、安房に返してくれることを条件に引き受けます。

新兵衛は単身山に入ると、2本の矢で虎の両眼を射貫きます。あっけないほど簡単に妖虎を退治しちゃったのでした。虎が死ぬのを見届けた新兵衛はその足で、政元に挨拶もせずに安房に帰ってしまいました。

虎はその後、無事に絵の中に戻りました。

新兵衛、妖虎を退治す
虎部分アップ

なお、この虎には後日談があり、あの一休和尚が出てきます。画虎の前で一休和尚と将軍義政が会談するのです。しかし実はその少し前に一休は死んでいて、義政をいさめるために亡霊が出てきたのだった、という落ちです。どこまでも怪しげな画虎なのでした。

南総里見八犬伝
一休和尚が義政の前に現れたところ

日本画の虎

日本にトラは生息しません(※注)。 当然ながら、昔の絵師で本物の虎を知っている者はほとんどいませんでした。 だから馬琴も「八犬伝」で、稚児(寅童子の変化?)に、こういわせています。

始(はじめ)唐山人(からくにひと)の画きしを、古昔(むかし)の画工が本にして写ししを、後人(のちのひと)、其を又師表(をしえのおや)として、写しうつして今に至れり。ここをもて、よくその毛を画く者は、其骨格(ほねぐみ)の錯(たが)へるを知らず。又よく形状(かたち)を写すものは、眼口耳鼻、髭と尾と、前後の脚、牙爪までも、似たるや否(あらずや)、這那(これかれ)と、比べ見るに由なければ、常言(ことわざ)にいふ、虎を画きて、狗(いぬ)になるを、画工(えし)、世俗(よのひと)も、知らず悟らで好(よし)といふ、和筆に虎の写生(しょううつし)の、得かたきはこの故にこそ。

日本に虎は生息していないから、昔中国から持って来た絵を写し、それをまた写しして、今にいたっている、そのため毛が良く描かれているものは骨格がおかしいし、体型がよく描かれているものは眼口耳鼻、髭と尾と、前後の脚、牙爪までも、実物に似ていない、まさに諺に言う「虎を画きて、狗になる」で、みんな知らないからそれで良しとしているけど、日本人が画いた虎で本物はない、と。

しかし、勇猛な虎という存在は、 日本画でも好んで描かれる画材です。絵師達は、身近な猫を観察して虎を想像するしかなく、日本画に描かれている虎の多くが、 本来の丸い瞳ではなく、猫のような縦長の瞳に描かれてしまいました。江戸時代の有名な画家たち、 円山応挙(1733~95年)、長澤芦雪(1754~99年)、 葛飾北斎(1760~1849年)、渡辺崋山(1793~1841年)、 歌川国芳(1797~1861年)等でさえ、 描いた虎の瞳は、針のような縦長の瞳でした。

(※注)画像には著作権があります。利用は「研究情報アーカイブズ」の利用規約をご理解の上、直接ダウンロードしてください。拙サイトからの孫引きはご遠慮ください。

そんな中、狩野家の画家達だけは、虎の瞳を、狩野探幽(1602~74年)から明治時代にいたるまで、正しく円形に描いたそうです。すごいですね。

(※注)画像には著作権があります。利用は「研究情報アーカイブズ」の利用規約をご理解の上、直接ダウンロードしてください。拙サイトからの孫引きはご遠慮ください。

ところで、日本で最初の動物園は1882年開園の東京・上野動物園。 そこで初めてトラが公開されたのは1887年(明治20年)。 大変な人気者となり、来園者が急増したそうです。絵師たちも見に行ったのかもしれません。

(*) 静岡県三ヶ日町で、1959年にトラの下顎骨が発掘された。 約2万年前、日本列島がまだ大陸と陸続きだった頃には、日本にもトラが生息していたのだ。 が、その後の地層からは発見されておらず、 日本のトラは大昔のうちに絶滅したと考えられている。

「虎」が出てくる部分の原文抜粋

関連個所を全部書き出すとなると、膨大に長くなってしまいますので、「無瞳子の虎」の部分だけ書き出します。それでも長いです(汗)

第九輯 巻之二十六 第百四十一回 ISBN:9784003022481 page124-

登時(そのとき)巽は行童(ちご)に向ひて、「和子(わこ)且(まづ)這方(こなた)へすすませ給へ。何等(なんら)の御容(ごよう)候ぞや。」と問へば答て「然(され)ばとよ、我は這頭(ここら)に程遠からぬ、山院(やまでら)に侍(はべ)る者なり。薬師十二神の内中(うち)、第三なる、寅童子(とらどうじ)に宿願ありて、虎の画額を、献(たてまつら)まく欲す。汝(いまし)が画く十二支の額は、孰(いづれ)の獣も好(よし)と云(いふ)、人の噂に聞知(ききし)りて、其を誂(あつらへ)ん為に来にけり。予(かねて)画(えが)きし虎ありや。」と問復(とひかへ)されて、「然(さ)ン候。価賤(あたひいや)しき画額なれば、その像(かた)ばかりを左(と)やら右(かう)やら、塗粉(ぬりまぎら)し候へども、御意(ぎょい)には称(かな)はず候はん。」といひつつ傍(かたへ)に建累(たてかさ)ねる、虎の画額を抜出して、「則(sなはち)是(これ)にて候。」とわたすを行童(ちご)は受掌(うけとり)て、つらつらと視(み)て、「現(げに)好々(よしよし)。是(これ)よき事は好(よ)けれども、いまだ足(たら)ざる所あり。かういはば年歳(とし)に似げなく、博士態(はかせぶる)に似たれども、虎は素(もと)より這(この)大皇国(おおみくに)に、絶(たえ)てこれなき獣なれば、始(はじめ)唐山人(からくにひと)の画きしを、古昔(むかし)の画工が本にして写ししを、後人(のちのひと)、其を又師表(をしえのおや)として、写しうつして今に至れり。ここをもて、よくその毛を画く者は、其骨格(ほねぐみ)の錯(たが)へるを知らず。又よく形状(かたち)を写すものは、眼口耳鼻、髭と尾と、前後の脚、牙爪までも、似たるや否(あらずや)、這那(これかれ)と、比べ見るに由なければ、常言(ことわざ)にいふ、虎を画きて、狗(いぬ)になるを、画工(えし)、世俗(よのひと)も、知らず悟らで好(よし)といふ、和筆に虎の写生(しょううつし)の、得かたきはこの故にこそ。」と解示(ときしめ)しつつ、袱(ふくさ)裹(つつみ)を、徐(しづ)かにうち啓(ひら)きて、「我(わが)誂(あつらへ)はここに在り、是(これ)見給へ。」と梧桐(きり)の箱より、出すは故(ふり)たるかけ軸なり。這行童(このちご)手自(てづから)柱の釘に、掛(かく)ればやがて見(あら)はるる、是則(これすなはち)画虎(ゑがけるとら)にて、勢ひ活(いけ)るが如くなれども、白眼(しろまなこ)にげ目子(めのたま)なし。行童又巽に解(とき)ていふやう、「在昔(むかし)宇多天皇の寛平二年〈唐朝照宗(たうちやうせうそう)の大順(だいじゅん)元年〉呉国(くれのくに)の酋長(きみ)、商船(あきものふね)に就(つき)て、雛虎(とらのこ)一頭(いっぴき)と、払林狗(ちひさいぬ)二頭を、貢(みつぎ)まつりし事ありけり。時に従五位下(しょうごゐのげ)采女正(うねめのかみ)、巨勢金岡(こせのかなおか)、画図(ゑのみち)に工(たくみ)なり、世の人称(たたえ)て、神筆霊画(しんぴつりやうぐわ)とす。金岡則(すなはち)勅(みことのり)に因(より)て、其虎の真形(まかたち)をうかがいみること百日可(ももかばかり)、観ぬる随意(まにまに)是を写せば、三個(みたり)の児子(こども)相資(あひたすけ)て、着色(いろとり)も亦(また)ふでを尽くせる、画稿(したゑ)七八十幅(ふく)に至れども、いまだ金岡の意(こころ)にかなはず。いかで虎の怒れるを、見ばやと思ひて、しかじかと、かふ奴(もの)に相譚(かたら)ふに、かふ奴則こころ得て、虎の睡(ねむ)らんとしぬる折、捍棒(ようじんぼう)を檻の内へ、突入れて打驚せば、虎はたちまち振然(しんねん)と、身を起こし背(そびら)を高くし、眼(まなこ)をいからし爪を張り、尾を建て哮(たけ)る声に、天震ひ地動き、巌石砕け、草木も舎(いへ)も、共に反覆(くつがへ)るかと思ふ可(ばか)りなる、猛威凄じかりければ、人みなおどろき怕(おそ)るるそが中に、単(ひとり)金岡は自若として、料紙を啓(ひら)き筆を染て、いかれる虎の光景(ありさま)を、写すこと半晌(はんとき)許(ばかり)。既にして写し得にける、其歓(そのよろこ)び大かたならず。特に得意なりければ、稍久しうしえ絹に写すに、をさをさ写真を宗としつ、この余の画稿はみな焼棄(やきすて)て、是を朝廷(みかど)に献りしかば、帝(みかど)則(すなはち)叡覧(えいらん)あるに、精妙幾(ほとんど)真に逼(せま)れり。しかれどもその眼(まなこ)に烏珠(ひとみ)なし、この義いかに、と勅問ありしに、金岡答まうすよう、外国(とつくに)の猛獣(たけきけもの)を、今や初て観候へば、たやすく筆をとりかたかり。この故に、臣等(わくら)先(まづ)、那檻(かのおり)の辺(ほとり)に造りて、虎を覗ふこと百有余日(ももかあまり)。おの怒哮る折に方(あた)りて、則他(すなはちかれ)が精神を、便(すなはち)この絹中に、写し蔵(をさ)め候ひしかば、わざと眼に筆を省きて、目子(めのたま)をば仕(つかまつ)らず。かうまうさは誇言(ほこりごと)に似て、畏れある義に候へども、さきに臣(それがし)勅詔によりて、画きたりける牧馬すら、夜夜(よなよな)紙中を脱出(ぬけいで)て、芳宜戸(’はぎのと)なる胡枝花(はぎ)を齧り、と人伝(ひとづて)に聞えしかば、随即復(すなはちまた)その馬に、絆索(はづな)を追写(ゑがきそえ)しより、出ずなりき、と人みないへり。馬だにかかる奇瑰あり、況(まいて)や虎は外国(とつくに)にて、百獣(もものけもの)の王(きみ)とぞいうなる、猛悪威霊、豺狼(おほかみ)に、百倍しぬる毛属(けもの)に侍れば、這画(このゑ)倘亦(もしまた)脱出(ぬけいづ)る、事しもあらば人を害(そこな)ふ、不測(ふしき)の禍(わざはひ)なからずや、と思ひ怕(おそ)れて眼(まなこ)に点せず、胡意(わざと)瞽盲(めしひ)に仕(つかまつ)りぬ。この言(こと)差(たが)ひ候はずは、那虎(かのとら)久しかるべからず、必験(かならずしるし)候はん、と稟(もうし)ける、勅答(ちょくたう)憚る所なかりしを、帝は然(さ)もや、とばかりに、心許(こころもと)なく思召(おぼしめし)しに、是よりの後幾日もあらで、果せるかな那虎は、病こともなく卒然と、檻の内にぞ斃(たふ)れける。その折君を首奉(はじめたてまつ)り、卿相雲客(けいしょううんかく)がい然と、うち驚き且感じて、原来(さては)金岡が筆勢(ふでのいきおひ)に、那虎は精神を、奪れたれば、斃(たふ)れしならむ。寔(まこと)に馬と云(いひ)虎と云、神筆二度の験(しるし)あり。独唐山(ひとりからやま)なる張僧よう(ちょうそうよう)が、画くきし竜のみならんやとて、奇特の事にぞ思ひける。因て帝は、件の画幅を、無瞳子(ひとみなし)の虎と唱えさせて、大かたなず御秘蔵ありしに、日嗣(Zひつぎ)の御子(みこ)、醍醐天皇の、昌泰二年に至りて、太上天皇(即(すなはち)先帝宇多)御落飾(ごらくしょく)の折、這(この)無瞳子の虎の画幅を御布施として、御室(みむろ)の仁和寺に賜りしより、久しく那寺の什物たりしに、近世(ちかきよ)元弘・建武より、嘉吉・応仁に到まで、諸国の諸侯、蜂のごとく起り、麻のごとく乱れて、五畿七道(ごきしちどう)、いへばさらなり、百石城(ももしき)の大宮尚(すら)、戦馬の塵埃(ほこり)に塗(まみ)れしより、名だたる神社仏閣も、並て軍兵の乱妨(らんぼう)を、免(まぬか)るる者なかりしかば、這(この)かけ物も何人にか、奪略(うばひと)られつ甲の手に渡り、乙の手に渡り伝へ伝へて、近属(ちかごろ)はわが寺に在り。即是(すなはちこれ)壇越某甲(だんゑつなにがし)が、寄進しぬるによりてなり。

※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。

著者について

曲亭馬琴(きょくてい ばきん)

明和4年6月9日(1767年7月4日)~ 嘉永元年11月6日(1848年12月1日)。しばしば「滝沢馬琴」とも呼ばれるが、「滝沢」は本名「滝沢與邦(たきざわ おきくに、旧字体:瀧澤興邦)」の名字である、本人が自称したペンネームは常に「曲亭馬琴」の方だったそうだ。 『南総里見八犬伝』は、文化11年(1814年)から天保13年(1842年)まで、28年もかけて書き上げた超大作。天保12(1841)年頃には馬琴は完全に失明、その後は口述筆記で創作を続けたという。『八犬伝』の二大テーマは「勧善懲悪」と「因果応報」。内容的には儒教の影響が大きい。

『南総里見八犬伝』

  • 著:曲亭馬琴(きょくていばきん)
  • 制作:文化11年(1814年)~天保13年(1842年)
  • NDC:913.5(日本文学)長編小説
  • 登場ニャン物:紀二郎、山猫(化け猫)、画に描かれた虎
  • 登場動物:犬(八房、与四郎)、龍、狐、牛、狸、馬、猪、貒(「まみ」と読み、正体不明。穴熊・狸・鼬・ムササビのいずれかあるいはそれらのミックス)、ほか

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA