塚本学『生類をめぐる政治』

塚本学『生類をめぐる政治』

副題:元禄のフォークロア。

江戸の第五代将軍・徳川綱吉(在職:1680年-1709年)は犬公方と呼ばれ、綱吉の「生類憐みの令」は、犬を厚く守ったとして有名です。しかも「お世継ぎに恵まれないのは前世の報い。子が欲しければ生類を大事にするように。綱吉は戌年だから、特に犬を大事に扱え」と僧侶の隆光に言われたからという、まことに身勝手な理由から出た令だと。人よりも御犬様が大事とは、綱吉め、ってことですが、本当にそんな悪法だったのでしょうか?

この本は、綱吉だけでなく十七世紀における徳川政権全体の中で、生類と人間の関係を広く見直し、生類憐みをめぐる法令を考察したものとなっています。

生類憐みの政策は、ひとをふくむ一切の生類が権力によって保護されるべきものだという考え方と、もう一面ではひとびとに生類憐みを命ずるという考え方の二面をもっていた。政権にとっては、生類憐みの志をひとびとがもつことで世は安定し、人民は安らかな生活できるというわけで、両面は矛盾しないはずのものであった。
ISBN:9784062921558 page 280

鉄砲・鷹狩

江戸時代の農村には、多くの鉄砲が存在していました。領主や武士たちのみならず、農民の中にも鉄砲を所持する者が少なからずいたのです。これは当然ながら、政権にとっては脅威となり得ます。徳川政権が鉄砲の所持・移動をきびしく監視しようとしたことは、義務教育を受けた日本人なら誰でも知っている通りです。

著者は最初の章で、鉄砲と生類憐みの政策を関連付けて説いています。作物を荒らす猪や鳥たちに対し、それらにおどし鉄砲としての空砲をうつだけでなく、実弾で仕留めて害を減らす必要が多々あった、だから武具ではなく「農具としての鉄砲」が多く存在したのだと。そしてそれらを管理することが、政権安定のためには最重要課題のひとつだったのだと。

諸国鉄砲改め令は、したがってまたこれを一環とする生類憐み政策は、徳川政権による人民武装解除策という意味をもった。刀狩の徹底度に問題があると同様に、諸国鉄砲改めも、文字通りすべての鉄砲を人民から没収したものではない。かなりの在村鉄砲が、おどし鉄砲・猟師鉄砲等としてのこされた。だが、大量の鉄砲を取上げ、その他の鉄砲もすべて終局的には幕府の管理下におくのが、諸国鉄砲改めの、少なくとも意図したところであった。(中略)国家権力の人民の武力に対する策として、これは大変画期的なものであった。
page 42-43

つぎに、鷹狩と領主たち、および百姓たちの関係について述べます。鷹狩は単なる狩猟という趣味を越えて、権力と直結したものとなっていました。鷹狩での獲物を確保するために、獲物となりうる生き物は、たとえ農作にとっては害獣・害鳥となろうとも殺傷を禁止されたり、農地や農作の都合も考えずに鷹狩が行われることが多々あり、百姓たちにとってはかなり迷惑な行為だったようです。権力者たちの狩猟好きは日本に限られたことではなく、たとえばヨーロッパの鳥獣保護区(=Game Reserve)も元はと言えば、権力者たちが好きに狩猟できるよう、その地域の野生動物数を保護したことから始まったことでした(Gameは現在の「ゲーム」ではなく狩猟対象の獲物の意、Reserveは取っておく・蓄えるの意)。

綱吉は、その鷹狩も規制しました。

古来の在地支配者が、その地住民に対してもっていた権限の、全国的組織化という意味あいをもった。加えて、徳川政権は、朝鮮使節を通じても、また蝦夷地支配によっても、良質の鷹を独占的に入手できた。鉄砲を通じる支配よりも、むしろ鷹を通じる支配の方が、意外に現実的であったのかもしれない。
page 97

つまり、鉄砲や鷹狩の規制については、決してただの「生類を憐れみなさい」の点からだけでなく(多少はあったかもしれないが)、それ以上に、徳川政権の支配確立の面から理解すべきだと、著者は言っています。

塚本学『生類をめぐる政治』

捨子・捨牛馬

生類憐み令として一般に理解されるところでは、とくに犬の愛護令が強く印象づけられているが、実際には捨子・捨牛馬の禁令の方が、犬に関する諸令よりも、早くきびしく、また全国への徹底がはかられもした。
page 202

今からは考えられないことですが、江戸時代の当時、捨て子は珍しいものではなかったようです。避妊薬もコンドームもなく、堕胎手術もできなかった時代です。また、ひとたび飢饉ともなれば死人肉さえ食べるほど困窮した時代でもありました。その一方で、幼児の死亡率は高く、子が欲しい人も相当数いたのです。貧困層の人々が、赤ちゃんを人通りの多い場所や裕福な家の門前に捨て、よい家に拾われることに一縷の望みをかけたのです。また、子を売ったり、逆に多少の金銭をつけて里子に出すこともよく行われました。悪質な里子詐欺も横行していたそうです。金だけ受け取って子を捨ててしまうという悪行です。

綱吉は、子を捨てることを禁じただけでなく、捨て子を見ながら放置することも処罰の対象としました。その結果、

捨子を悪とする見方が、幕府禁令を機会として、およそ元禄期~一七世紀末に、強まり広がって行ったことは、疑いないのである。
page 220

捨ててはならぬとされたのは、子供だけでなく、役立たずとなった老人や病人、老牛馬、病牛馬もでした。旅人が宿場で病に倒れた時も、赤の他人と見捨てることは許されず、宿の主人等はちゃんと面倒を見るようにと命じられました。それを著者は「自然と人為とを区別しない生類感覚(page 281)」と評しています。

捨子捨病人を禁止し、その養育を求めるのが生類憐み政策の重要な一環であった。とすると、綱吉の政治が犬を重んじて人命を軽んじたというひろく存在している通念は、必ずしもあたらないことになる。だが、生類憐み政策なるものが、たとえば入牢者の待遇改善(『令状』三三八)にも及ぶものであったことは、早く栗田元次の指摘するところであり、一体、「生類之中ニ人を以貴シトス」といわれるように、生類とは、ひとをふくむ概念であった。ただ、ひとからみての生類といったばあい、ひと以外の生類が主な内容になるのは自然だったが、そうしたみる側――主体としてのひととは、おのずから生産年齢にある男性を中心に意識された。そこで、ひとのなかでもとくに、病人・乳幼児・入牢者といったひとが、生類憐み政策の対象としての位置をしめることになったのである。
page 226

今風に言えば弱者救済でしょうか。弱者達をもっと労われ、憐れめと、上から強制した形です。憐れむことを強制するとは妙に聞こえますが、でもそれは、それまでの男達の武力社会を、思いやりある平和な社会に方向転換させるには、強引に見えようとこのくらいの政策が必要だったということなのです。

著者は綱吉を名君だとほめあげているわけではなく、また生類憐れみの政策をべた褒めしているわけでもありません。ひたすら、当時の社会の変化や、徳川政権の確立安定に、生類憐みがどうかかわり、どのように機能したかを多方面から解説しています。生類憐み政策は、単なる動物愛護政策ではありませんでした。この本を読めば、その政策の多くが、「徳川の平和 Pax Tokugawana」と言われるほど平和な260年を築き上げるためには必要な諸令であったことがわかります。

(それにくらべて現代の「動物愛護法」の非力な事と言ったら!そのザルっぷりは「愛護法怪々疎過ぎてだだ漏れ」で頭に来ます。)

※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。

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目次(抜粋)

  • 農具としての鉄砲
  • 御鷹と百姓
  • 御犬様始末
  • 捨子・捨牛馬
  • 生類概念と鳥獣害―――人獣交渉史断章
  • 参考文献
  • あとがき
  • 学術文庫版あとがき
  • 解説 分類と支配・・・成沢光

著者について

塚本学(つかもと まなぶ)

おもな著書に『徳川綱吉』『近世再考』『村の生活文化』『江戸時代人と動物』『都会と田舎』『生きることの近世史』『塚本明毅』ほか。
(著者プロフィールは本著からの抜粋です。)

『生類をめぐる政治』

元禄のフォークロア

  • 著:塚本学(つかもと まなぶ)
  • 出版社:講談社学術文庫
  • 発行:2013年
  • NDC:322.15
  • ISBN:9784062921558
  • 311ページ
  • 初出:1983年平凡社より刊行
  • 登場ニャン物:
  • 登場動物:
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