仁科邦男『「生類憐みの令」の真実』

仁科邦男『「生類憐みの令」の真実』

「生類憐みの令」はどんな法令だったか?

かつて、「生類憐みの令」の評判は散々なものでした。

その後、多くの歴史家たちが、綱吉の施政や「生類憐みの令」を見直し、その評価も変わってきました。本著の「はじめに」では、テレビ東京「開運!なんでも鑑定団」で流れたナレーションを引用しています。

「江戸幕府第五代将軍綱吉は天下の悪法と言われる生類憐みの令を発布したことにより、犬公方と呼ばれ、暗君の極みとされてきた。しかし、近年の研究ではその実像は全く異なり、文治国家の礎を築いた名君として高く評価されている」「実際に掟を破り重罪に問われた者はごくわずかだった。むしろこの法は戦国時代以来、紙切れのように価値が下がってしまった命の尊さを人々に再認識させるものだったと言えるのである」
page 10

このような評価に対し、著者は「いえいえ、昔の評価通り、生類憐みの令は天下の悪法ですよ」と言いたいようです。少なくとも私にはそう読めました。綱吉の「生類憐みの令」がどれほど庶民を無視したものであるか、どれほど人々を苦しめたものであるか等、これでもかと並べたてた内容となっています。

著者は何を「生類憐みの令」と呼ぶべきか、著者なりの条件をつけています。まず「生類憐み志向」と「生類憐みの令」を区別します。それから、綱吉が発令したものであっても、対象が捨て子・病人等の人間である場合は、「生類憐みの令」に含むべきではないと著者は書いています。なぜなら綱吉は「生類」と「人々」を分けて考えていたとから、と書いています。

生類は仏教で使われる言葉である。生類には人を含む場合と含まない場合がある。動物という言葉に人を含む場合と含まない場合があるのと同じだ。ただし綱吉は一貫して人と生類(人以外の動物)を区別して御触れを出している。前出の「捨て子養育令」に始まる御触れの最後の項目に「すべて生類、人々、慈悲の心を元とし憐れむこと」とあるが、この中でも「生類」と「人々」はきちんと区別されている。「生類」の中に「人々」は含まれていない。
page 147

また、著者は「生類憐みの令」という法令が成立するための条件を3つ挙げています。

一つ目は、綱吉の個人的な意向、感情に基づく省令憐みに関する法令であること。 二つ目は、生類憐みの志を持つことの大切さを強調し万民に理念の実行を強要したこと。 三つ目は、法に従わない者を厳しく罰したことだ。 生類憐みの令が悪法として歴史にその名をとどめたのは、常識はずれの生類憐み(動物愛護)を万民に強要し、従わないものを厳罰に処したためだ。「生類を憐みなさい。守らないと罰する」と万民に命じた一連の法令の総称が生類憐みの令なのだ。
page 40

が、しかし。この「条件」は著者が決めたものにすぎません。それは著者自身の言葉からもわかります。

このころ(nekohon注:1888年ころ)はまだ生類憐みの令という言葉も使われていなかった。「生類憐みの儀」「生類憐憫の事」その他いろいろに呼ばれていた。一八九二年(明治二五年)に帝国大学助教授(のち教授)になった三上参次の講義録『江戸時代史』にやっと「生類憐みの令」が出てくる。
「文庫版あとがきに代えて」page 317

つまり、どれが「生類憐みの令」にあたるかは、後世の人が決めたというのです。現代の「動物の愛護及び管理に関する法律」(通称「動物愛護法」)のように、ひとつにまとまった法令として整備されていたわけではありません。ですから、何を「生類憐みの令」に含めるかは自由だということです。

「生類憐みの令」に人を含むべきではない、という指摘についても。私は含めるべき、含めてほしい派です。なぜなら、たとえば著者が「含まれない証拠」としてあげている綱吉の言葉「すべて生類、人々、慈悲の心を元とし」、この言い方、それほど人と他の生き物たちを区別していますか?私にはそうは思えません。むしろ、「生類、人々」と並べている点、しかも「生類」を「人々」の前に持ってきている点、これは「生類も人々も平等に」という意味であり、区別していないように思えます。一般的に「生類」という言葉には人を含む場合と含まない場合とがあることから、「人々もだよ」という意味で併記した、というふうに読めます。

著者は、綱吉のことを、決して動物が好きだったわけではない、むしろ嫌いだったが、ただ「死」という穢れを極端に嫌っただけだった、とも書いています。人だろうと動物だろうと、とにかく誰かが「死ぬ」という「穢れ」が耐えられないだけだった、と。

でももしそうであれば、どのような刑罰にも処刑(死罪)は含まれないはずですよね。現に日本では、平安時代の810年から約350年間、国家による公的な死刑が行われなかったという実例があります。「死の穢れ」を嫌っただけなら、その歴史に倣えばよかったのです。

でもそうはしなかった。それどころか処刑も憶さなかったことは、有名な「赤穂浪士」の結末の通りです。また、入牢させた罪びとの牢死が多いことも綱吉はよく知っていました。だからこそ、牢の改築など環境改善も行ったのでしょう。

それに、綱吉の御触れの内容の細かさを見れば、これが動物嫌いの思いつく内容とは思えません。たとえば、馬。見た目を善くするために馬の筋を切ったり、馬の尾先を焼き切ったりすることを禁じています。さらにイモリまで。生きたイモリを黒焼きにする商売を禁じています(当時イモリの黒焼きは薬として売られていた)。現代の自称動物愛好家でも、イモリの苦しみにまで気を回してくれる人は多くはありません。

また、綱吉は江戸城台所へのこのように命令しました。

鯉、鮒、烏賊、鰻、蝦、蛸、貝類、鮩塩辛(あみしおから)、鳥類、海鼠、右の趣は向後御台所へつかい申すまじく候。熨斗鮑(のしあわび)と串海鼠(くしこ=干しナマコ)は苦しからず候由。
page 43

これは、鳥類以外は、「飼い置く」生き物、つまり、鮮度を保つために料理するまで生け簀などに生かしておく生き物たちという共通点があると著者は指摘しています。生きたまま江戸城内に連れてきて料理の時に城内で殺す、それを綱吉が嫌ったというのです。対し、熨斗鮑と串海鼠は漁された海辺で加工されるものだから、城内では殺さない、だから禁止されなかったのだ、と。この命令も、著者が綱吉を「死を嫌っただけ、生類を憐れんだわけではない」証拠のひとつとしてあげているものです。

でも、ですよ。生け簀に閉じ込められることがどれほどその生き物にとって恐怖であるか。生け簀という不自然な状況がどれほど生き物を苦しめるか。その挙句に殺されて料理されてしまう。野生動物は多くの人間が想像しているより、はるかに敏感で状況把握能力もあります。鳥やコイやタコくらいの知能があれば、このままでは自分は死ぬ(殺される)ことも理解できるのではないでしょうか。野生動物たちの唯一で最大の願いとは「生きること」です。生きて子孫を残すことです。死にたくない気持ちは人も鯉も蛸も変わらないと私は思います。「飼い置き」をしてから殺すことと、獲った浜辺で即殺して加工すること、どちらが残酷か。私は前者だと思います。綱吉が嫌ったのは死の穢れだけでなく、不要に残酷な仕打ちを行うことも嫌ったのだと解釈することも可能だと思います。

著者が、綱吉が犬が好きではなかった証拠としてあげているもうひとつの証拠。犬を飼った形跡がないこと。たしかに、なんでも自分の思い通りにできる権力者が犬好きであれば、犬を身の回りに集めそうな気もします。でもそれに対しても私には異論があります。綱吉は戌年生まれ故に犬をことさら気にかけたのは事実です。が、彼にとっての「生類」は犬だけではなく、犬や人をも含む生類全体に及んでいたので、犬だけを飼うどころではなかったのかもしれません。また将軍という立場は、権力者ではありますが、不自由な身分でもあります。自分の立場等を考えれば、犬を飼ってもその犬を幸せにでき、かつ、自分もそその犬と幸せな関係を築けるとは思えなかったのかもしれません。そんな事より江戸中の犬達を幸せにすることこそ、将軍である自分の使命だと思ったのかもしれません。もちろん、単に飼うほど好きではなかったという可能性も否定はできませんが、とはいえ、綱吉が自ら犬を飼っていなかったというだけで「犬嫌い」とは言えないと思うのです。

著者は本の最後でこう締めくくっています。

(前略)綱吉の生類憐みは嫡子誕生祈願を動機として始まり、嫡子誕生をあきらめた時、理想社会を実現するための施策として、生類憐みに新たな意義を発見した。そのことを高く評価する人たちもいるが、しょせんは独りよがりの政策でしかなかった。
page 306

(前略)表向きの「動物愛護」という言葉に惑わされると、綱吉の本当の姿が見えなくなる。
page 307

つまり、著者の結論は、「生類憐みの令」に動物愛護精神は無く、単に嫡子誕生祈願や自分の理想政治を、庶民を無視した形で推し進めたに過ぎない、身勝手な締め付けだった、ということのようです。つまり、やっぱり「天下の悪法」だったと。

仁科邦男『「生類憐みの令」の真実』

天下のザル法=現代の「動物愛護法」よりは「生類憐みの令」の方が動物を愛護している

「動物愛護法」では「愛護動物をみだりに殺したり、傷つけたりした者は、5年以下の懲役または500万円以下の罰金。愛護動物を虐待または遺棄した者は、1年以下の懲役または100万円以下の罰金」と定められています(2024年2月現在)。しかし、これがとんでもないザル法なんです。

2021年、長野県松本市で、ある繁殖業者による動物虐待事件が発覚しました。劣悪な飼育環境にくわえ、獣医師の資格もないのに1000頭もの犬たちに帝王切開の手術を、それも無麻酔でくりかえし行っていた罪状に、愛犬家ならずとも人々は震え上がりました。実刑を求める署名が5万人以上集まりました。

しかし、2024年1月に行われた裁判での求刑は「動物愛護法違反の罪で懲役1年、狂犬病予防法違反の罪で罰金10万円」!!!!!

これが、これこそが、現代の「動物愛護法」の実態。これほどまでに軽んじられている、これが動物たちの法律上の立ち位置。

こんなザル「動物愛護法」に比べたら!!

「生類憐みの令」の方がどれほど動物達によりそっていたか。どれほど細かく思いやっていたか。違反した者はちゃんと罰せられました。もしあの時代に1000頭もの犬を虐待した人物が検挙されたら、死刑は間違いなく、さらにその名は今に残る大悪人として記録されたことでしょう。

私は死刑を支持しているわけではありませんが、それにしても、1000頭もの犬たちの苦しみを思えば、懲役1年+罰金10万円はあまりに軽すぎて眩暈がします。

現代の「動物愛護法」を動物を愛護する法律であると豪語するなら、「生類憐みの令」はその何倍何十倍も上を行く動物愛護法だと私は思います。綱吉が動物を好きだったか嫌いだったかなんて関係ないのです。重要なのは、ちゃんと動物達を護ったかどうか、ということです。

綱吉は名君か暗君か

著者は本のどこにも「綱吉は暗君だった」とは書いていません。が、綱吉の御触れがどれほど独りよがりだったか、くりかえし説いています。綱吉の希望は、最初は嫡子誕生、その後は己の夢見る堯舜時代の理想政治復元を机上追究しただけであって、生類や民衆の為ではなかったというのです。

でも私は、綱吉は名君だったと思います。

綱吉が将軍をしていたのは延宝8年8月から天和・貞享・元禄を経て宝永6年1月まででした。ところで300年も続いた江戸時代の中で、我々現代人がまっさきに思い浮かべる江戸時代といえば元禄の頃でしょう。綱吉の元禄時代に、それまでの武断主義が文治主義に転換し、産業と貨幣経済が大発展、町人文化が花開きました。井原西鶴、松尾芭蕉、渋川春海、新井白石、貝原益軒、近松門左衛門、等々、これらの名前は日本人なら誰でも聞いているはずです。前述の通り赤穂浪士事件がおこったのも元禄時代です。浪士たちが全員切腹となったのは、それまでの血で血を洗うような争いごとは止めよという強い意志があったからと思われます。

あの元禄時代を築いた将軍・綱吉が暗君なわけがない。

そうは思いませんか?

※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。

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目次(抜粋)

  • はじめに
  • 序章 明暦の大火―生類憐みの原風景
  • 第1章 生類憐みの令はいつ始まったのか
  • 第2章 僧隆光は、生類憐みの令を進言したのか
  • 第3章 生類憐みの令、発令される
  • 第4章 牛、馬、鳥、魚介、虫…連発される禁令
  • 第5章 馬憐み令
  • 第6章 「捨て子」の養育令・禁止令は、生類憐みの令なのか
  • 第7章 徳川光圀の生類憐み
  • 第8章 「聖人君主」への道
  • 第9章 「トビとカラスの巣払い令」とは何か
  • 第10章 中野犬小屋時代
  • 終章 それぞれの終焉
  • おわりに
  • 生類憐れにの例と里犬絶滅小史 文庫版あとがきに代えて
  • 生類憐みの令関連年表
  • 参考図書、引用図書・雑誌一覧

著者について

仁科邦男(にしな くにお)

著書に『九州動物紀行』、『犬の伊勢参り』、『犬たちの明治維新 ポチの誕生』、『犬たちの江戸時代』、『西郷隆盛はなぜ犬をつれているのか』。
(著者プロフィールは本著からの抜粋です。)

『「生類憐みの令」の真実』

  • 著:仁科邦男(にしな くにお)
  • 出版社:株式会社草思社 草思社文庫
  • 発行:2022年
  • NDC:322.15
  • ISBN:9784794225948
  • ページ
  • カラー、モノクロ、口絵、挿絵、イラスト(カット)
  • 原書:
  • 初出:2019年
  • 登場ニャン物:
  • 登場動物:
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