宮沢賢治『セロ弾きのゴーシュ』
『新編・銀河鉄道の夜』収録(新潮文庫)。
ゴーシュは町の活動写真館でセロ(チェロ)を弾く係りでした。金星音楽団の団員でした。
活動写真館とは、今でいう映画館のことです。昔は録音技術がなかったから、無声映画を流して、音声は生演奏だったんですね。
ゴーシュは楽手の中では一番下手くそでした。ゴーシュは、それは一生懸命に弾きます。口をりんと結んで、眼を皿のようにして楽譜を見つめながら。
それなのに、いつも楽長に叱られます。
「(前略)ゴーシュ君。君には困るんだがなあ。表情というものがまるでできてない。怒るも喜ぶも感情というものがさっぱり出ないんだ。それにどうしてもぴたっと外の楽器と合わないもなあ。(後略)」
ゴーシュは、楽団での練習後も、ひとり家で夜通し、練習を続けます。ゴーシュの住まいは、こわれた水車小屋。周囲に小さな畑を作って、一人で細々と生きています。
練習中に、三毛猫が訪ねてきました。
三毛猫は、半熟トマト(ゴーシュの畑から無断でとってきたもの)を差し出す代わりに、「トロメライ、ロマチックシューマン作曲(原文ママ)」を弾いてくれと言います。
「わたしはどうも先生の音楽をきかないとねむられないんです」
「生意気だ。生意気だ。生意気だ。」
イライラしたゴーシュは、かわりに「印度(インド)の虎狩」という曲を、猛烈な勢いで弾きはじめます。三毛猫は大慌て、ぱちぱち火花を飛ばしながら部屋中を走り回りますが、ゴーシュが鍵をかけてしまったので、逃げられません。しかも演奏後、三毛猫をだまして舌を出させ、それでマッチをシュッと擦って火をつけたのですから、もうたまりません。猫はよろよろ逃げ道を探します。
最後にはゴーシュも戸を開けて逃がしてやるのですが、・・・いくら楽長に怒られてむしゃむしゃしていたからって、ゴーシュ、ひどすぎない?
宮沢賢治は猫嫌いだったという説が有力なのですが、この三毛猫の扱いをみると、猫嫌いというのは本当なんだなとか思ってしまいます。
猫嫌いといわれる割には、猫が出てくる童話がけっこう多いのではありますが。
さて、その後も、毎晩、動物がゴーシュの前に現れては、演奏を頼みます。ゴーシュの動物たちへの態度も、しだいに優しくなっていきます。
そして、いよいよ本番の日。金星音楽団の演奏は大成功で、アンコールの拍手が止みません。
すると、驚いたことに、楽長はゴーシュにアンコールを弾けというのです。
ゴーシュはやけくそ気味に、「印度の虎狩」を演奏します。そうです、あの晩、猫に弾いたのと同じ曲です。ところが、これがすばらしかった。
楽長が褒めます。
「ゴーシュ君、よかったぞお。(中略)十日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ。」
楽団のほかのメンバーも、皆、ゴーシュを褒めます。
・・・・・
ゴーシュはなぜ、短期間で、これほど上達できたのでしょうか?
以下は、私管理人の、勝手な推理です。
ゴーシュは、これほど練習熱心なのですから、それなりの技術はあったのでしょう。が、その演奏は、ひたすら楽譜を見つめながらでした。「顔も真っ赤になり眼もまるで血走ってとても物凄い顔つきになりいまにも倒れるかと思うように」ごうごうと弾くのです。これでは、良い「音楽」なんて出るわけがありません。
まずは、猫でした。「印度の虎狩」を弾きながら、猫があわてふためく様子を横眼で見て面白がりました。譜面から眼が逸れ、他者の存在を意識しはじめました。弾く姿勢に余裕も出ました。
つぎは、かっこう鳥でした。単なる音階ではない、本当の音というものを出す練習になりました。
つぎの狸で、自分の演奏だけでなく、周りの音にも合わせることを学びました。
そして、最後の野ネズミで、音楽の力を知りました。音楽は他者を癒し、周囲を幸せにするものだと知りました。
ゴーシュの演奏が、ただの「音」から「音楽」に脱皮した瞬間でした。
・・・と、私はこう解釈しています。
どれほどコンピュータが発達しても、人工知能が進化しても、人間による生演奏を凌ぐことは永遠にないだろうと、そう確信しています。
音楽とは、「音の寄せ集め」じゃないのですから。
※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。
『セロ弾きのゴーシュ』
『新編・銀河鉄道の夜』収録
- 著:宮沢賢治 (みやざわ けんじ)
- 出版社:新潮社 新潮文庫
- 発行:平成元年(1989年)
- NDC:913.6(日本文学)短篇小説/童話
- ISBN:4101092052 9784101092058(2012年改版)
- 357ページ
- 登場ニャン物:三毛猫
- 登場動物:かっこう鳥、狸、野ねずみ
新編:銀河鉄道の夜 目次
- 双子の星
- よだかの星
- カイロ団長
- 黄いろのトマト
- ひのきとひなげし
- シグナルとシグナレス
- マリヴロンと少女
- オツベルと象
- 猫の事務所
- 北守将軍と三人兄弟の医者
- 銀河鉄道の夜
- セロ弾きのゴーシュ
- 饑餓陣営
- ビジテリアン大祭
- 注解—天沢退二郎
- 宮沢賢治の宇宙像—斎藤文一
- 収録作品について—天沢退二郎
- 年譜
初めて読んだとき猫虐待すな!と思いました。
今読んでもゴーシュの馬鹿!と思います。
歌心は機械にはまず表現できません。
お互いの息遣いを感じて、その時の雰囲気で緩急つけるのは音楽を知り尽くした仲間ならではの醍醐味だし、聴衆もその空気を楽しみに会場に足を運ぶ。
多少のピッチやテンポの揺らぎが味になります。
音楽が楽しめる自分の環境に感謝!です。
そして音楽には猫が似合う。
音楽を聴いてると絶妙のタイミングでぴったりの音でなきます。
爪の垢をのませてやりたいプレイヤーもいるくらい。
ゴーシュはアンサンブル下手なコミュニケーション障害だったのですかね。
あれはまさに猫虐待ですよね(汗)
だから私もこの話、昔は大嫌いでした。
(今でも別に好きってほどじゃありませんが)
ただ、動物たちに聞かせているうちに音楽が上達するという点が面白いかも、と思い直したのです。
そう気づいて読み返したら、上記のような解釈になりました。
とはいえ、やっぱり、ゴーシュって男、鼻持ちならない・・・