乃南アサ『凍える牙』

1996年直木賞受賞作品。
さすが受賞するだけのことはある。文句なしに面白い。テレビドラマにもなった。韓国で映画化もされた。それだけのことはあると思う。
冒頭は衝撃的ではあるけど、全編を流れている主流は心理劇である。 ドンパチ派手な暴力活劇だけがお好きな男性読者には、あるいは向かないかもしれない。
しかし女性なら、なかでも「古い体質の企業」で働いているキャリア・ウーマンなら、ミステリー好きでなくとも、共感できる部分が多く面白いのではないだろうか。
ということで。
未読の方は、ここでサイトを閉じて、ぜひ本著を読んでください。
私はここから先、思い切りネタバレを書きます。
推理小説でネタバレを先に読むほどつまらないことはありません。
未読の方は決してこれ以上このサイトに留まりませぬよう。
既読の方だけ、先へお進みください。
以下、ネタバレ注意。

乃南アサ『凍える牙』
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有名な本なので、すでに様々な書評・レビューが飛び交っている。
中でも、若い女刑事・音道貴子と、ベテラン男刑事・滝沢保の、緻密な心理描写をたたえたものが多い。
今さら私ごときが繰り返すまでも無かろう。
そこで私は、推理小説としてではなく、動物本として見てみたい。
実際、再読ということもあり、ほぼ最初から最後まで動物本として読んじゃったのだし。
動物本として見れば、否、動物本として見なくても、この小説とはすなわち、全編オオカミ賛歌である。
正確には「疾風」はオオカミではない。オオカミ犬、またの名をウルフドッグ、つまりオオカミと犬の混血である。
疾風にオオカミの血がどのくらい混ざっているのか明確ではないが、
「最高では九九パーセントオオカミというのも、いるそうです」
が、
「警察犬としての訓練などを受けやすいのは、むしろオオカミの血は比較的薄い、八〇パーセント程度のウルフドッグといわれております」
と書かれていることから、おそらく疾風も、80%くらいのオオカミ犬と思われる。
80%だって、ふつうに考えれば、オオカミの血がきわめて濃いことになると思う。
純イヌx純オオカミでオオカミ50%。
そのオオカミ50%に純オオカミを交配してオオカミ75%。
オオカミ75%に純オオカミをもう一度交配して87.5%。
このオオカミ87.5%と、先のオオカミ75%を交配すれば、オオカミ81.25%となって、やっと「80パーセント程度」のオオカミ犬ができあがる。
さらに99%オオカミとなれば。
最初のイヌxオオカミで50%、x純オオカミ1回目で75%、2回目で87.5%、3回目で93.5%、4回目で96.75%、5回目で98.375%、6回目で99.1875%。
ここまで来たらもう‘オオカミ犬’ではなく、‘オオカミ’だろう。
そもそも、最新の遺伝子学では、イヌの先祖は中東のハイイロオオカミだそうだし(”Nature”2010.3.17.米カリフォルニア大学ロサンゼルス校研究チーム発表より)。
また、小説によれば、オオカミ犬一般の特徴は;
・大きさは20~80kg、平均45kgくらい。
・非常な跳躍力をもち、ゆうに5mも跳ぶことができる。
・20分間全力疾走が可能で、時速4~50km程度なら相当長時間走り続けることが可能。1日で200kmも移動できる。
・嗅覚に優れ、2.4km離れている獲物の臭いを嗅ぎつける。
・噛む力は650kgと、シェパードの約2倍。
さらに一番の特徴は
「その記憶力の良さ、賢さであるといえましょう」
なんてすごい犬だ!まさに、犬以上の犬。
ただし、
「彼らには彼らのポリシーのようなものがあり、人間が勝手に愛玩用として飼えるような生易しい相手ではない」
プライドが高く、警戒心が強く、絶対的な信頼関係を結べた相手にしか心を開かないというのだ。
イヌよりはるかに優れた資質をもち、犬のように高い訓練性を秘めながら、猫のように誇り高い動物。
それが、オオカミ犬だという。
中でも疾風は、とびっきり優秀なオオカミ犬だった。
温和で、忠実で、愛情にあふれ、ずばぬけた身体能力をもち、そして、・・・
恐ろしいほどに賢かった。
人間の浅知恵を遥かにしのぐ知性を持っていた。
これほどの犬が、復讐の道具、殺人犬として育てられてしまった悲しさ。
なんと恐ろしい凶器だろう。
なんと美しい心だろう。
血塗られたオオカミ犬の崇高さ、清らかさ。
裏にひしめく人間たちの、唾棄すべき醜さ、愚かさ。
物語は、ヒトとオオカミを対比させながら、最後のクライマックスへと登りつめていく。
音道貴子はバイクの運転技能に優れていた。暗号名「トカゲ」の一員だった。「トカゲ」とは、必要に応じて、オートバイによる追跡任務を下命される機捜査隊員の呼称である。
そのバイクに乗って、貴子と疾風が、深夜の首都高を疾走する!
この小説全編が、ただこのシーンの為に書かれたのではないかと疑いたくなるほど、かくも鮮やかで印象的なシーンだ。
貴子は、連続殺人犯の‘犯人’が、人ではなく犬らしいと知り、オオカミ犬という存在もそこで初めて知った。貴子は、オオカミ犬について調べはじめ、そして魅せられていく。そこらの飼い犬とは雰囲気も目つきも全然違った。
そしてついに、疾風を見た。最初の邂逅はほんの束の間。
・・・(前略)深みのある瞳が、真っ直ぐに貴子を見据えていた。
ーーこれが、疾風。オオカミの血いを受け継ぐ犬。
思っていた通りだった。強烈な存在感。威厳。気品。知性。(中略)まるで、夜明けの谷間に漂う雲のように、疾風は、ただそこにいた。うなり声も上げず、その静かな表情からは、怒りも、憎しみも感じられなかった。
どうして、こんなに静かな表情でいられるのだろう、この、気高さとも感じられる雰囲気は、何なのだろう。(後略)
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次の瞬間、疾風は逃げてしまった。
疾風は昭島市で再目撃された。
貴子も駆けつけ、また疾風に会った。
疾風は走り出した。貴子がバイクで追う。
貴子と疾風は、昭島から中央高速に乗った。犬とはいえ、人間を3人も喰い殺したオオカミ犬だ。ただちに全線通行止めの処置がとられた。
疾風はひたすら高速を走る。冬の寒空の下、深夜の高速を、ひたすら走る。疾風の走りに迷いはない。目的地に向かって、自信にあふれ、使命感にあふれ、バイクの貴子と、その後ろに警察車両を引き連れながら、脇目も振らずに堂々と走っていく。
昭島から芝浦、汐入、生麦、湾岸線にはいり、有明、葛西を通過、浦安、そして、湾岸習志野。
そこでやっと疾風は、高速から降りた。
そして千葉マリンスタジアムの横の林の中に入った。
最期の目的=襲うべき相手=が、その林の中に隠れていたのである。
疾風は最後の使命を果たそうと跳躍した。
が、・・・すでに警察と猟友会に包囲されていた。
疾風は麻酔弾に倒れた。
ーー楽しかった。
ーー違う形で、出逢えたら。
ーー人間にだって、あんな目をした人はいない。
貴子は疾風にすっかり魅了されていた。
そして、疾風も貴子を認めていた。
家族以外は誰も愛さないオオカミ犬が、貴子の事は認めていた。
疾風は、桜の開花を待たずに死んだ。
疾風が死んだのは麻酔銃で撃たれたせいでも、他の怪我や病気のせいでもない。
疾風は断固として食事を拒否し、医者を拒否し、どこまでも毅然と、自らの意志で、餓死したのである。
オオカミ犬の、自殺。
ふとシートンの『オオカミ王ロボ』を思い出す。
ロボも、シートンに捕えられたのちは、何もかも拒否し、絶食し、死んだ。
けれども、疾風の死がロボの死と違うところは、ロボはいわば失望の中で王者らしく切腹したようなものだが、疾風は、やるべきことをすべてやり終えた充実感の中で静かに自死していったことだろう。
疾風は不遇な一生を送った犬ではあった。
しかし、どんな犬より、オオカミより、さらに人間の誰よりも、誇り高く、気高く、まっすぐで、誠実だった。
疾風ほど崇高な人間が、この世にいるだろうか。
(2012.9.24.)
※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。
『凍える牙』
- 著:乃南アサ(のなみ あさ)
- 出版社:新潮文庫
- 発行:1996年
- NDC:913.6(日本文学)小説
- ISBN:4101425205 9784101425207
- 520ページ
- 登場ニャン物:-
- 登場動物:疾風はやて(犬)