笙野頼子『愛別外猫雑記』

猫恐怖症だったのに、野良猫8匹の世話をするはめになった作家。
著者は元々、30代後半まで猫恐怖症だったそうだ。
ただ、たまたま、友達になった相手が猫だった。先住猫のドーラと、最近逝ってしまったキャト。猫達のことを本に書いたりしたので、猫好き作家と誤解されるが、いまでも決して猫好きに変身したわけではない。子猫をみても「かわいい」なんて思ったことはない。
そんな彼女の住むマンションに、子猫をつれた野良猫が住みついた。「元飼い主」、といっても、気が向いたときに餌だけ放り与える無責任餌やりの典型だが、不妊手術も糞掃除も何もしないので、見かねた著者がつい、後始末をするようになった。
野良猫たちにかかわってみると、今まで知らなかった猫事情が見えてくる。人間の身勝手さにウンザリする。著者は人間嫌いで、誰ともやがて喧嘩別れしてしまう性格だと自認している。野良猫たちを救おうとすればするほど、人間の醜さが目に付いて、腹は立つし、イライラするし、精神がやられそうだ。ついには、最終手段にうって出る・・・・・便利な賃貸マンションを出て、千葉に家を購入したのだ。自己所有の戸建てに住めば、猫達を遠慮なく飼うことができる。野良猫たちは、里親募集したものの、3匹残ってしまった。先住猫のドーラと合わせて4匹。
猫達のお陰で家が買えたのだと父親はいうが、猫達のために買ったが正しい。元猫恐怖症、今でも「猫好きではない」のに・・・(苦笑)
この本は、野良猫たちの捕獲前後の出来事、というか、葛藤を、延々と書き綴ったものである。

笙野頼子『愛別外猫雑記』帯
笙野頼子氏の文体には独特なリズムというか「うねり」があって、好きな人にはたまらなく魅力的だろう、けれども合わない人には、読みづらい文章ではある。告白すると私もどうも波長が合わない。だから読むのはけっこう苦痛ではある。まあ、合うかどうかは単なる趣味の問題にすぎないけれど。
合わないと知っているにもかかかわらず、また買ってまた読んだのは、ところどころ宝石のような文章があることも知っているからだ。
たとえば、猫ギドウの鳴き声についても、
(前略)大声ギドウの、ーーー。
ばううーう、ぎゃっらーっ、ぎゃっわーっ、あいあいあい、ぎゃっうーう、らあああああ、ばぶばぶばぶばぶ、ぎゃぎゃぎゃるるる、・・・ぎゃっわーい、あっぐぇーい、ばぶばぶばぶぐるぐるぐる、という声はその日ひときわ、もう、絶好調と言えた。
page10
なんてたのしい擬音!猫と言えばニャーだけの作家とは大違いだ。これぞ真の作家の耳だよね~と拍手。
また、こんなのも。
全ての歌謡曲は男女の事ではない、どれも全部猫に対する人間の気持ちをうたっていると思ったとき、やっと納得がいく。
甘い切ない恋の歌、苦しい片思い、悲しい別れ。たしかに相手が猫なら全部納得。
でもこういう「楽しい文章」以上に、私にとって嬉しく「完全同意!」な文章が、あちこちに出てくる。
ペットフードの会社がもし捨て猫の現状を飼い主未満の人々に知らせようとするのなら猫缶に何か印刷すればいいのだともよく思うのだ。
page13
本当にね。私が知っている限り、捨て猫野良猫に関する啓蒙をパッケージに記載しているペットフード会社はゼロだ。猫砂メーカーでは「ペパーレット株式会社」が唯一、そのような啓蒙を書いている。ペパーレット株式会社さん、感謝、すばらしいです。しかしほかの日本製猫砂メーカーは、アメリカ等では義務化されている「トキソプラズマ症に関する注意書き」すら書いてない。嘆かわしいかぎりだ。(ちなみに、ペパーレット株式会社は世界で初めて紙製の猫砂を開発した会社です。)
「元飼い主」こと無責任餌やり女は、その後、なんとペットショップで血統書付き子猫を購入していた。著者は心の中で悪態をつかずにはいられない。
ギドウが靴で追われ、モイラがゴミ捨て場の汚いたたきに撒かれたカリカリを食べるのを見るたび私はついつい純血種の販売なんか禁止してしまえと思ったものだった。禁止はしなくてもボランティアのところの犬や猫の里親程審査したらどうだなどと。
(中略)
純血種だって飼う場所も見て今後の方針も聞いて、誓約書をかわしてから売買するべきだ。
page33-34
まったくその通り!
そもそもマスコミ等でよく言う「野良猫のいる光景は心温まる」という言葉は変な言葉だと思う。誰も責任も持たず面倒も見てやらぬ猫、医者にかかれず虐待者のするがままに放置されている猫、すぐに死ぬ血液の病の猫を見て勝手に心温まるというのだろうか。外でぬくぬくしているのは首輪のない飼い猫か超ラッキーな外猫、そしてたまたまその時縄張り争いに買って束の間の幸福に誑かされている若い若いオスだ。「いいなあ野良猫は気楽そうにしてて」としつこく言う男と話をしていたら、子供の頃にクギで矢を作って猫の尻を撃ったと言っていた。
(中略)
「保健所にやる」という言葉も変と言えば変で、殺すのは保健所の職員ではなくて元の飼い主なのだ。だったら「私が自分の都合で殺しました」と言えと思う。
page159-157
広い世の中には野良猫でいる事を好む猫もまったくゼロではないだろう。人だって、地位も名誉も捨てて好んでホームレスになる人がいるのだ。
しかし根っからの野良猫でも、高齢になると人に頼ることが多い。気が強くて決して触らせなかったボス猫が、体力が衰えたらスリスリ自ら寄ってきて人に抱かれることがよくある。ましてボスにもなれない弱い猫にとって、外暮らしは辛すぎることが多い。それは、野良猫を飼い猫にすればすぐにわかる。どの猫も顔つきがたちまち穏やかに変わってしまうのだ。野良猫から飼い猫になって、顔つきが変わらなかった猫なんて、私の知っている限り、1頭だっていない。餌をばまらいているだけでは、猫達は安心できない。家の中に入れられ、特定の人に愛されて、正式に飼い猫になってはじめて、猫の表情が変わる、猫は安心する。だって猫は家畜として遺伝子改造されてしまった動物なのだから。
(ネコは野生を残しているというのは人間の身勝手な幻想である、イヌよりは多少野生を残している程度というのが正しい。姿形こそヤマネコと大差ないが脳の中身がまるで変えられているのである、外からは見えないだけで。)
著者の笙野頼子氏は「私は決して猫が好きなのではない」と繰り返して書いていらっしゃるけれど、どうしてどうして。これだけ野良猫たちのことを想ってくださる愛猫家は少ないと、私などは思うのでございます。

笙野頼子『愛別外猫雑記』

笙野頼子『愛別外猫雑記』
※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。
『愛別外猫雑記』
- 著:笙野頼子(しょうの よりこ)
- 出版社:(株)河出書房新社
- 発行:2001年
- NDC:914.6(日本文学)随筆、エッセイ
- ISBN:4309014046 9784309014043
- 203ページ
- 登場ニャン物:ドーラ、ルウルウ、モイラ、ギドウ、ハンス、カノコ、フミコ(フミ)、リュウノスケ(リュウ)
- 登場動物:-
【推薦:きな様】
「ミーのいない朝」の稲葉真弓さんの猫、稲葉ボニーくんを、そもそも始めに保護し「里親に是非稲葉さんを!」と願っていたのが、笙野頼子さん。
「作家と猫」(河出書房新社、2000年)にもエッセイをよせていますが、ひょんなことから野良猫一族を保護し、彼らを守って戦い、ついには引き取り手のなかった3匹と、もとからいるドーラをつれて「愛する東京を離れ、未知なる千葉県S倉に」引っ越すまでの顛末を小説化したのがこの本。
腰巻きのキャプションにいわく「行くぞ、ドーラ!ルウルウ!モイラ!ギドウ!可愛いだけか?迷惑だけか?『かわいそう』だけかよ~!行くぞ4匹。わが盟友、猫よ。」
ドーラ以外の名前はもちろん森茉莉さんの小説から・・。
ところで、「愛別~」で笙野さんが保護しようとした猫は8匹です。
笙野さんと暮らすことになった3匹と、残難ながら逃げてしまった「ハンス」をのぞいた4匹の名は「坊ちゃん(稲葉ボニーとなる)」「カノコ」「フミコ(フミ)」「リュウノスケ(リュウ)」文芸してますね。
(2002.4.26)
*サイトリニューアル前にいただいておりましたコメントを、管理人が再投稿させていただきました。