上橋菜穂子『鹿の王』上・下

副題:上巻「生き残った者」、下巻「還って行く者」。壮大なファンタジー。
本屋大賞第一位、累計100万部突破というベストセラー。そりゃもう、面白いったら何の!
強大な東呼瑠(ツオル)帝国が、勢力をどんどん拡大していた。闘って敵う相手ではないことくらい、アカファ王にもわかっていた。ただ同じ降伏するにしても、少しでも有利な条件を引き出したかった。
そのために選ばれた捨て駒が「独角(どっかく)」と呼ばれる戦士団。何らかの理由で生きる希望を失った男たちばかりを集めた集団である。だから通常の意味での「命知らず」をも超えた働きをした。飛鹿(ビユイカ)に乗って、馬では通行不能な険峻な山岳地帯を神出鬼没に走り回り、東呼瑠軍をおおいに悩ませた。
ヴァンは、その独角の頭だった男だ。40歳。
ついに独角が亡ぼされた時、なぜかヴァンだけ生き残ってしまい、東呼瑠軍に捕らえられて、岩塩鉱の奴隷に繋がれた。地中奥深い坑道での、過酷な環境。長く生きた者でも3カ月、死んだらポイの、使い捨て労働力。
その岩塩鉱に、突如として現れた黒っぽい生き物たち。黒狼?山犬?奴隷たちも、監督たちも、料理人の女性たちまで、ことごとく噛まれ、そして・・・発病し、死んだ。
噛まれて生き残ったのは、わずかに、ヴァンと、ひとりの幼児のみ。ヴァンはその女の子を連れて逃亡する。
調査団が送られてきた。東呼瑠帝国としても、謎の病気を一刻も早く解明する必要があった。ホッサルはオタワル人の医術師だったが、「魔神の御稚児」と陰で呼ばれるほどの知識と技量をもつ。岩塩鉱を見回ってすぐに、とある病名を疑った。これは「狂犬の病」ではない、昔ひとつの国を滅ぼしたと歴史に名が残る「黒狼熱(ミッツァル)」ではないか?

上橋菜穂子『鹿の王』

上橋菜穂子『鹿の王』
* * *
ヴァンには邪心も我欲もない。ただそのときに己が守るべきものを、全力で守っているだけである。愛する妻も息子も、さらに祖国(の独立)さえも失った今、彼が守るべきものは、偶然出会った幼いユナと、親切にも彼を助けてくれた人々だ。ヴァンは誠実に彼らに尽くす。
そう、密かに、静かに生きていきたいだけだというのに。
なぜか、ヴァンの周りに、いくつもの国や氏族から、次々と手が伸びてくる。それぞれの様々な思惑をもって。
さらに、ヴァンの体にも変化が起こっていた。あの病の影響か?
ホッサルも、根はヴァンに劣らず純朴な男なのだ。彼の興味は医術のみ。ひたすらに医術の研究をして、あとは恋人のミラルさえいれば、本来は満足な男なのだ。その辺が祖父とは違う。彼の祖父は医術に優れていたが、陰謀にも長けた男だった。だからこそ、東呼瑠帝国の清心教祭司医学に迫害されつつも、なんとかオタワル聖領の医学を守ってこられたのだったが。
しかしホッサルも、やはり静かには暮らせない。オタワル王国はすでに滅びたとはいえ、ホッサルはその王家の末裔なのだ。しかも彼は皇帝の妃を救い、恐るべき黒狼熱の治療薬をも開発するという活躍もした。周囲が放っておくはずがない。
ヴァンとホッサル。育ちも立場も何もかも違う二人を2本の太い柱に、壮大なファンタジー世界が織りなされていく。
* * *
単行本にして上下2巻、565+554=計1119ページといえば、短くはありません。でも、わずか2巻の本ともいえます。たとえば栗本薫「グイン・サーガ」全130巻(別の著者に引き継がれてからさらに巻数が伸びています)のような超長編であれば、いくつもの国々・いくつもの氏族が複雑に絡み合う地図は作りやすいでしょう。でもこの作品は、たった上下2巻。しかもドンパチと単純な勢力争いではなく、黒狼熱という病気を絡ませている。まるで精巧なゴブラン織りのタペストリーのようです。表には鮮やかな絵、裏には無数の色とりどりの糸。
私にはとても面白かったです。一気に読み終えました。
でも、某サイトレビューの☆の数は、5点満点ではない?こんな面白い本をどう読めば酷評できるのか、☆1つと2つのレビューを単なる好奇心でのぞいてみました。
どうやら「登場人物や造語が多く、主人公も2人なので煩雑だ」や、「古い時代の設定なのに、登場人物の言葉遣いが現代風だ/医学知識が進みすぎではないか」などの指摘が多かったような。
それらの指摘に対する私の個人的感想は。
登場人物や地名?少なくはないかもしれませんが、別に多いとも感じませんでした。ロシア文学の方が煩雑でしょ?ナントカ・ナントカビッチ・ナントカスキーやら、ナーニャ・ナンチャラシュワ・ナンチャラフスカなど、長々しいカタカナ名がゾロゾロ登場するロシア文豪の小説のほうがずっと覚えにくい(汗)
それに対し、『鹿の王』では、カタカナ名と漢字名をうまく混在させているので、覚えるわずらわしさはありませんでした。それに、そもそもファンタジーとは、架空の世界のこと。国名や地名がすべて造語なのは当然ですよね。
また、我が地球の我々の歴史では、言葉(日本語)はこのように変遷し、医学はこのような速度で発達しましたが、「架空の世界」でも同じとは限らないじゃないですか。なにもかも同じだったら、もう架空とはいえないし(笑)だから言葉遣い等などの点も、私にはぜんぜん気にならないというか、気にする必要もないと思うんですよね。現代技術をもってしても、エジプトの大ピラミッドがどうつくられたのかわからない、なんて話もあることですしね。
あとひとつ。「盛り上がりに欠ける」みたいな評もありましたけれど。
これも私は、ぜんぜんそうは思いませんでした。むしろ私は最初から最後まで引き込まれっぱなし。あっというまに読み終えた口ですから。盛り上がりに欠ける、と書いた人たちは、あるいは「帝国軍、30万人。対する反乱軍、わずか6万。どう戦うのか!?いざ決戦の火ぶたが切られた!」みたいな、ドンパチ、ドカン!ドカン!!的シーンを期待していたのでしょうか。そういうスターウォーズ的スペクタクルを期待していたのであれば、まあ期待外れでしょうけれど。私はそういうの、嫌いですから。敵軍の末端の歩兵にだって家族はいるだろうに、なんて思っちゃうタイプですから。

上橋菜穂子『鹿の王』

上橋菜穂子『鹿の王』
* * *
残念ながら、猫は出てきません。「猫」という単語はたしか、わずか2か所、「ホッサルは猫のように喉を鳴らし・・・(上巻page90)」と、「猫ですよ。馬を坑道に入れると、餌を狙ってネズミが来やがるのでね」(上巻page117)、これだけだったと思います。飛鹿(ビュイカ)や火馬(アファル)、山犬(オッサム)など、架空のものを含め、動物は多く出てきますが、主役はあくまで人間です。動物は重要な要素だけど主格ではありません。
なので、1回目に読んだときは、サイトにレビューをアップしなかったんですけれど(サイトリニューアル中で新規ページの作成が面倒くさかったというのもあるが・・・汗)、今回、続編『鹿の王 水底の橋』を読み、もとの『鹿の王』も再読し、やっぱりこの作品を無視するわけにはいかないと思いました(書評リニューアルも麹終了したしね!www)。だって面白いもん。
ちなみに。タイトルともなっている、鹿の王の意味。ヴァンが飛鹿乗りの名手ということもありますが、こういう意味もあるようです。
「飛鹿の群れの中には、群れが危機に陥ったとき、己の命を張って群れを逃がす鹿が現れるのです。長でもなく、仔も持たぬ鹿であっても、危難に逸早く気づき、我が身を賭して群れを助ける鹿が。たいていは、かつては頑健であった牡で、いまはもう盛りを過ぎ、しかし、なお敵と戦う力を充分に残しているようなものが、そういうことをします。
私たちは、こういう鹿を尊び〈鹿の王〉と呼んでいます。群れを支配する者、という意味ではなく、本当の意味での群れの存続を支える尊むべき者として。―――貴方がたは、そういう者を〈王〉とは呼ばないかもしれませんが」
下巻 page249
ヴァンは、ほんとうにカッコイイ男です。物語に登場したとき、彼にはもう何も残されていませんでした。妻子も故国も地位も財産もすべて失い、文字通り裸一貫の、ただの逃亡奴隷。そのヴァンが、八面六臂の大活躍をします。しかも心優しく、徳に厚い。これぞ男の中の男?
もうひとりの主人公、ホッサルは、地位も技術もある男なのですが、「いるよね、こういう男、身近に」みたいな(笑)。一流大学にいけばいっぱいいそうなタイプです。頭はいい、研究熱心、だけど自分の専門に夢中になりすぎてどこか抜けている?親近感を持てる男です。
ファンタジー好きな方、もし未読でしたら、ぜひ是非どうぞ!
* * * * *
2019年、続編『鹿の王 水底の橋』が刊行されました。
こちらも面白かった!ちょっと予想とは違いましたけれど。
『水底の橋』は、ホッサルとミラルの話です。医療の心、医学の根源について、これでもかと問うた作品です。
医療とは何か、人を治療するとはどういうことか、医学の世界に政治が絡んでくるとどうなるのか、医術師はどう考え、どう行動すべきなのか。どんな治療が正しいのか。死に向かう人にたいして、どうするのが一番良いのか。
とことん突き詰めて、悩んで考えて、それでもわからない、わからなくても考える、考え抜く。読んでいるうちに、こちらも考え込んでしまいます。すごい力作です。
残念ながら、前作のもう一人の主人公・ヴァンやユナやサエは出てきませんが。私が最初に「予想とは違った」と書いたのは、そのことです。ヴァン達があの後どうなったのかぜひ知りたかった、名前すらまったく出てこなかったのは意外でしたし、残念でした。
でもでも!
ってことは、次の作品はヴァンたちの話になるってことですよね?きっとそうですよね?
思い切り楽しみに待っていますのでどうぞよろしく!!
なお、続編の方はほとんどが人間世界だけの話です。「ミンナル」という架空の小型猛禽類が出てきますが、プロットとしての脇役にすぎず、物語の進行にはほぼ関係ありません。

上橋菜穂子『鹿の王』

上橋菜穂子『鹿の王』
※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。
『鹿の王』上・下
(上)生き残った者。(下)還って行く者。
- 著:上橋菜穂子(うえはし なほこ)
- 出版社:株式会社KADOKAWA
- 発行:2014年、2014年
- 初出:書きおろし
- NDC:913.6(日本文学)小説
- ISBN:(上)9784041018880
- 565ページ、554ページ
- 登場ニャン物:
- 登場動物:飛鹿(ビユイカ)、山犬(オッサム)、半仔(ロチャイ)、火馬(アファル)=以上、空想の生物。狼、大鹿、トナカイ、馬、犬、他
目次(抜粋)
(上巻)
主な登場人物
―――〈光る葉〉の卵―――
第一章 生き残った者
第二章 恐ろしき伝説の病
第三章 トナカイの郷(さと)で
第四章 黒狼熱(ミッツアル)
第五章 〈裏返し(オツファ)〉
第六章 黒狼熱を追って
(下巻)
第七章 〈犬の王〉
第八章 辺境の民たち
第九章 イキミの光
第十章 人の中の森
第十一章 〈取り落とし〉
第十二章 〈鹿の王〉
―――緑の光―――
あとがき