小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』
チェスと共に生きた少年の物語。
読み始めてすぐに、なぜかヘルマン・ヘッセの『ガラス玉演技』を思い出した。
ヘッセは、言わずと知れた、日本でも人気のドイツ作家。『ガラス玉演技』はノーベル文学賞をもたらした代表作といわれているけれど、・・・私は20代の頃に読んで、正直、難解なばかりで全然面白くないという印象しかなく、今やあらすじさえ忘れてしまっている。なのに何故かしきりに思い出された。よほど類似点があるのだろうか、あの長編を再読すべきか。
次に思い出したのが、同じくドイツ作家でノーベル賞作家のギュンター・グラス『ブリキの太鼓』である。
自らの意志で成長を止めてしまった少年、かたやチェス盤、かたやブリキの太鼓を片手に人生を歩く、というところが似ている。チェス盤やスカートの下に潜り込むという性癖も同じだ。しかし、グラスの小説が、猥雑なエロチズムの中に痛烈な社会批判をこれでもかと押し込んでいるのに対し、『猫を抱いて・・・』にはそのような生臭さは感じられない。似て非なる系統の小説と見なすべきだろう。
ドイツ文学で無理に押し進めれば、登場人物に固有名詞(名前)が無いという点においてフランツ・カフカ風といえなくもないけれど、もちろんカフカとも違う。カフカの主人公はどこまでも自己存在否定の渦に溺れているが、あのような絶対的疎外感は『猫を抱いて・・・』には無い。それどころか、主人公の「リトル・アリョーヒン」は、かなり特異であるにもかかわらず、行く先々で温かく迎えられる。家族にも恵まれている。
結局は『ピーター・パン』かもしれないと、読後に思った。バリのやや不気味な原作ではなく、ディズニー映画のおとぎ話の方の。
主人公「リトル・アリョーヒン」は、「大きくなること」に対し、異常な恐怖を持っている。
そんなリトル・アリョーヒンが友達に選んだのは、まずは象の「インディラ」だった。大人の象に成長してしまったがためにデパートの屋上から下界へ下りられなくなってしまった象である。
それから、少女「ミイラ」。家と家との間の狭すぎる隙間に入り込んで出られなくなった少女だ。
さらに太りすぎて死んだ「マスター」。リトル・アリョーヒンのチェスの師匠だった。
そう、リトル・アリョーヒンの友達は、皆、大きくなりすぎたが故に悲劇的最後を迎えたのだった。
それから、忘れてはならない大切な友達、猫の“ポーン”。
ポーンは、この小説に登場する中で唯一、生きて且つ名前を持つ存在である。他の登場人物(動物)はすべて、名前を持つ者はすでに死んでいるし、生きているものは名前をもたずあだ名や役柄名で呼ばれる。名前を持たない、という点では主人公の少年さえも同じだ。最後まで「リトル・アリョーヒン」でしかない。
しかし猫のポーンだけは名前を持つ。肉体も持つ。しっかりと実在している。
リトル・アリョーヒンは、そのポーンを抱いて、チェス盤の下に潜り込む。チェス盤の下は狭いから、胎児のように体を小さく折り曲げなければならない。ここで猫と胎児のイメージが一体化する。猫と人間の赤ちゃんの類似点は、しばしば指摘される通りだ。どちらもグニャグニャに柔らかくて、暖かくて、丸っこくて、目が大きく、おでこが丸く、大きさも同じくらいなら声まで似ている・・・。
しかし、リトル・アリョーヒンの実母はすでに死んでいる。リトル・アリョーヒンは祖母に育てられた。実母が思い出の中にしか存在しないために、ますます「胎内」は神聖視される。
そして、猫のポーンが死ぬと、リトル・アリョーヒンはさらに非現実的存在となる。生身の人間としてチェスを指すことやめ、チェス人形の中にもぐってしまうのだ。
最初から最後まで、ふわりと非現実的でおとぎ話的なストーリーだ。
けれども、このリトル・アリョーヒンはそれほど奇異な存在だろうか?むしろ現代社会にあふれてはいないだろうか?匿名ネットのハンドル名でしか自己存在を認識できない人々。いい歳をして絵文字多用の恥ずかしい文章ばかりを書く成人。
かく言う私もネットのバーチャル世界に逃げ込んでいることに変わりはない・・・猫だけを実社会との橋渡しと依存して。
(2010.8.28.)
※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。
『猫を抱いて象と泳ぐ』
- 著:小川洋子(おがわ ようこ)
- 出版社:文芸春秋
- 発行:2009年
- NDC:913.6(日本文学)小説
- ISBN:9784163277509
- 359ページ
- 登場ニャン物:ポーン、カイサ
- 登場動物:インディラ(ゾウ)