山田風太郎『八犬伝』上・下

山田風太郎『八犬伝』上・下

「虚」と「実」の世界が入り乱れる。

2024年、実写映画化。曲亭(滝沢)馬琴を役所広司、葛飾北斎を内野聖陽が演じて話題となりました。

内容

馬琴の「実」=実生活の世界と、彼が描いた「虚」=「八犬伝」の世界を、かわりばんこに織り交ぜて、八犬伝の面白さを世の人々に突きつけた、それが山田風太郎の『八犬伝』である。

「虚」の方の『南総里見八犬伝』。日本人なら誰でもその名を聞いたことがあろう。曲亭馬琴が28年の年月をかけて書き上げた9輯98巻106冊もの大長編だ。

「実」の世界の馬琴がそれを書いたのは、江戸時代後期、文化11年(1814年)から天保13年(1842年)のことである。当時の物書きの地位は現在とは大きく違っていた。少ない原稿料で、本業のかたわらに書くものだったのである。

そんな中、執筆だけで生計を立てた最初の作家が馬琴といわれている。

とはいえ、印税制度のなかった時代。最初に原稿を収めたときにもらう稿料だけが収入源だった。社交性の乏しい馬琴は、他の戯作者たちのように上手く立ち回って、稿料以外の収入を得ることもできない。しかも馬琴は病的なまでの完全主義者。すべてにおいて、嫌になるほど細かい。しかも妻のお百はひどい癇性持ちだった。夫婦の性格と貧しい家計に家族は苦しめられる。

そう、馬琴は、誰もが認める折り紙付きの堅物だった。なのにいったいどこからあんな奇想天外な幻想小説が出てきたのか。・・・巨大な犬と結婚する美しい姫、空に飛び散る8つの珠、その珠には「仁義礼智忠信孝悌」の文字がそれぞれ浮き出ている。天守閣の屋根上での決闘あり、女田楽師の妖艶な色仕掛けあり、妖狸が跳ね、妖狐が飛び、妖馬に妖虎、幽霊に手品。最新のハリウッド映画に負けないような華々しい仕掛けがあちこちに出てきて、恋愛あり、裏切りあり、だまし合いに、岩より固い忠義心、そして、驚くほどの勇気。

日本文学史上の傑作『南総里見八犬伝』の、とびきり面白い部分だけを抜き出して、山田風太郎の文章で書いたのだから、面白くないワケがない。『八犬伝』の部分はとびっきりに面白い。そこに馬琴の実生活が裏付けされて、『南総里見八犬伝』入門書としても最適な構図となっている。

感想

事前に読んだ書評等では、「虚」=八犬伝の部分は原作に忠実、それに馬琴と北斎の「実」を織り込んだ小説だと書いてありました。今回読んでみて、たしかにおおまかな筋は原作の通りです。が、細かな部分や設定には色々な変更・創作があります。

たとえば、冒頭。山田版では伏姫は馬の青海波に乗って父の居城を去りますが、原作では犬の八房と歩いて出、川を渡るときに犬の背に乗ったとなっています。青海波が出てくるのは八人目の犬士目・新兵衛が登場した後です。また、山田版では、悪女船虫は黒猫を抱いて登場しますが、原作では船虫は猫を飼っていません。等々、単なる「長編を圧縮」の範囲を越えた相違は随所にありますけれど、原作を読んでいない人には全然分らないでしょうし、著者の一番の目的は、あまりに長すぎる『南総里見八犬伝』の面白さを現代人に知らしめたいということでしょうから、別にかまわないと私は思います。

犬士たちの描写についても、山田版は、いかにも現代人の心を掴みそうな工夫がされています。馬琴の設定自体はなんら変更していないのです。ただ強調部分と省略部分をうまく選択してあるのです。その結果、小文吾の「頼もしいお兄ちゃん」ぶりが増す一方で、毛野の美貌がひきたち、また新兵衛の幼さも強調されて、原作よりも9歳の男の子っぽくなりました。唯一残念なのは、毛野が美しいだけでなく、恐ろしく頭の切れる男として活躍する部分が丸ごと削られてしまったことでしょうか。でも仕方ありません。毛野がその知能を遺憾なく発揮するのは終盤近くになってからなのですが、その終盤部分は山田風太郎はわずか数行にまとめてしまったのですから。

実際のところ、八犬士が揃ったあとの原作は冗漫の感がぬぐえず、私も読んでいて前半ほどの面白みは感じられませんでした。あれでは山田版がほぼ削ってしまったのも納得です。まとめてしまった言い訳を著者はこんなふうに書いています。

馬琴はこの最後の大決戦で、これまでの物語に登場し、まだ生きていた敵味方の人間の貸し借りをすべて精算させる。(中略)どんな脇役の小物同士でも、全員は善果を受け、悪人は悪果を受ける。
馬琴の「完全主義」のあらわれで、そのきちょうめんさが徹底しすぎてわずらわしいばかりだが、彼は、善悪のツジツマをあわせるためには、小説の面白ささえ犠牲にすることをかえりみない。
(page 371)

つまり「おもしろくない」とバッサリです。それどころかこんな辛辣な評まで。

一読、老いを知らぬ脳髄と見えて、老化による瑣末描写としかいいようがない。
(page 391)

そ、そこまでひどくはないと思いますが、とはいえ、・・・どう考えても、現代の「タイパ!コスパ!」な世代にはおそらく無理な冗長さだな、とは思います・・・まあ、馬琴らしい書き方ではあり、私のような活字中毒者は「少々かったるいけど、これはこれで良し」で全部読んでしまいましたけどね。

 

山田風太郎『八犬伝』上・下

馬琴、盲目となる

最後の、馬琴と息子の嫁お路との関係は、胸を打つ物として描かれています。まず右目が白内障で、「八犬伝」完成直前に左目まで見えなくなってしまった馬琴。その馬琴の難解きまわる文章を、ひらがなしか書けなかったお路が口述で書き取る決心をします。犬士たちに劣らぬ勇壮な決心です。なぜなら彼女はひらがなしか書けなかったのですから。漢字は、ひとつひとつ、教えてもらわなければならなかったのですから。

ふつうなら気が狂ってしまいそうな難事業です。しかも相手はあの馬琴。頑固で、融通が利かなくて、滅法細かい完璧主義者。対するお路は、元は下駄屋の娘。常識で考えれば、決して果たせぬ大仕事。著者は「聖戦」と表現していますが、まさに聖なる戦いそのものです。

なのに彼女はやり通した!そして長大なる『南総里見八犬伝』はついに完結した!これはもう、すごいを通り越して奇跡としか思えません。本当に偉業でした。すばらしい根性でした。

私は、ふたりの姿に、晩年の良寛さんと若い貞心尼の関係をふと思い出しました。あの2人は純朴な恋愛関係でしたけれど、でも、良寛さんという人物は、貞心尼に会うことで完成されたのです。・・・偉大な男にはふさわしい女がいつしか寄り添って完結させるのだ、なんて感動しながら、この『八犬伝』を読み終えたのでした。

おまけ:山田版の「猫」

それにしても、この山田版、やたら「猫」という文字が出てきます。もちろん原作の方にも猫は出てきます。まずは紀二郎。前半の主人公的存在である信乃の伯父叔母、蟇六・亀篠夫婦の飼い猫です。それから、庚申山の野猫(やまねこ)。大角の父に化けていたが現八に目を射貫かれた後、斬り殺されます。しかしこの程度で、あとは、あの長ったらしい全編を通してわずか10回ほど「猫」という字が使われる程度です。

対し、この山田版は上下2冊で、しかも半分は「実」=馬琴や北斎の話ですから、実質1冊分くらいしかないのに、原作を上回る数の「猫」の字が出てきます。馬琴先生が大の猫好きであられたことをご存じだからなのか、それとも、山田風太郎ご本人が猫好きなのか?・・・と、変なところでも楽しんでしまう猫好きな読者の私なのでした。

とくに船虫!世紀の大悪女・船虫が、いつも黒猫を抱いているのが印象的です。原作では、船虫の結婚相手のひとり、赤岩一角は実は野猫が化けたものだった、というのがあるだけで、ほかは船虫と猫は無関係です。けれども山田版では毎回黒猫と一緒。

猫以外のほかの動物たちも、原作より活躍しています。馬の青海波は初っぱなから登場してその後も何度も出てきますし、原作とちがって玉梓がたぬきを飼っていたり、毛野が追いかける猿の描写もしっかり書かれていて、また白狐の政木の忠義ぶりはかわりません。唯一、犬の八房と犬の与四郎とが原作ほどの存在感がなくて、八犬伝なのに犬の扱いが(?笑)って感じでではあります。また無瞳子の画虎(ひとみなしのがこ)の話がわずか数行の言及で終わらされているのも残念です。龍もほぼ省略されてしまいました。

省略といえば、こちらは人間の女性ですが、箙大刀自(えびらのおおとじ)が、名前が一度出ただけで出番はカットされちゃったのが少々残念でした。八犬伝全体の女性達の中で、箙大刀自はもっとも地位の高い女性のひとりであり、指導者として優れ、かつ、己の非を認めればたちまち改められる人格者でもあります。彼女が登場しないと、玉梓や船虫のようなアクの強い悪女ばかりが目立っちゃうんですよね。音音(おとね)ほか3人の女性達の勇敢なスパイ活動もカットされていますし。原作に出てくる女性は、美しいお姫様や悪質な悪女ばかりでなく、魅力的な性格の女性達も多く登場することをここに強調してレビューを締めくくらせて頂きます。

 

山田風太郎『八犬伝』上・下

 

『南総里見八犬伝』についてはこちらもご覧下さい。

※著作権法に配慮し、本の中見の画像にあえてボカシをいれる場合があります。ご了承ください。

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目次(抜粋)

『八犬伝』上

  • 虚の世界 伏姫
  • 実の世界 江戸飯田町
  • 虚の世界 犬士出現
  • 実の世界 江戸飯田町
  • 虚の世界 犬士出現
  • 実の世界 江戸飯田町
  • 虚の世界 犬士出現

『八犬伝』下

  • 虚の世界 犬士出現(承前)
  • 実の世界 神田同朋町
  • 虚の世界 犬士漂泊
  • 実の世界 神田同朋町
  • 虚の世界 犬士漂泊
  • 実の世界 神田同朋町
  • 虚の世界 犬士漂泊
  • 実の世界 四谷信濃坂
  • 解説  中島河太郎

著者について

山田風太郎(やまだ ふうたろう)

1947年「達磨峠の事件」で作家デビュー。49年「眼中の悪魔」「虚像淫楽」で探偵作家クラブ賞を受賞。その後、58年「甲賀忍法帖」を発表し忍法ブームに火を付けた。また『警視庁草子』『幻燈辻馬車』等秀作、名著多数。97年菊池寛賞を、2000年第4回日本ミステリー文学大賞を受賞。


(著者プロフィールは本著からの抜粋です。)

『八犬伝』上・下

  • 著:山田風太郎(やまだ ふうたろう)
  • 出版社:株式会社KADOKAWA 角川文庫
  • 発行:1989年
  • NDC:913.6(日本文学)小説
  • ISBN:9784041123430 9784041123447
  • 389、418ページ
  • 登場ニャン物:紀二郎、船虫の黒猫、ほか
  • 登場動物:八房・与四郎(犬)、青海波(馬)、たぬき、きつね、大鷲
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