書評:吉田兼好『徒然草』

吉田兼好『徒然草』

 

その昔、「馬・牛・犬を除き、人間は動物を飼うべきではない」と、兼好法師は説いた。


『徒然草』 (つれづれぐさ)は、吉田兼好が元弘1(1331)年ごろ書いた二百四十三段からなる随筆。
多方面な教養を持つ著者が、興に随って書いたもので、求道・処世論・趣味論・自然観賞から有職故実の考証など多岐にわたる内容が、多面的な観察と合理的・常識的な態度で書き記されている。
文体は、多く流麗な擬古文・和漢交合文であり、江戸時代以後、『古今集』『源氏物語』などとともに代表的な古典として尊重されている。
[ 以上、『図説・新国語便覧』東京法令出版より抜粋引用 ]

『徒然草』には、一箇所だけ、猫が出てくる。

もう少しくわしく言えば、出てくるのは猫ではなく、猫又である。
さらにもう少しくわしく言えば、その猫又は、・・・

なんて言ってないで、本文を引用する方が早いだろう。ごく短い段章なのだから。

第八十九段

 奥山に、猫またといふものありて、人を食(くら)ふなる」と、人の言ひけるに、「山ならねども、これらにも、猫の経あがりて、猫またに成りて、人とる事はあなるものを」と言ふ者ありけるを、何阿弥陀仏とかや、連歌しける法師の、行願寺の辺(ほとり)にありけるが聞きて、ひとり歩(あり)かん身は、心すべきことにこそと思ひける比(ころ)しも、ある所にて夜ふくるまで連歌して、ただひとり帰りけるに、小川(こがわ。固有名詞)のはたにて、音に聞きし猫また、あやまたず足許へふと寄り来て、やがてかきつくままに、頸のほどを食はんとす。肝心(きもこころ)も失せて、防がんとするに、力もなく足も立たず、小川へ転び入りて、「助けよや、猫またよや、猫またよや」と叫べば、家々より松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。「こは如何に」とて、川の中より抱(いだ)き起(おこ)したれば連歌の賭物(かけもの)取りて、扇・小箱など懐に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、はふはふ家に入りにけり。
  飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛び付きたりけるとぞ。

【意味】

 「山の奥にはな、猫又という化け物がいて、人を捕って喰うそうじゃ」と、人々がうわさしていたら、中の一人が「山奥までいかなくても、ここら辺でも、猫は年老いたら猫又になって、人を食うことがあるらしいぞ」と言いました。
それを聞いた、何とか阿弥陀仏という名の僧侶。趣味は連歌で、行願寺の辺に住んでいたのですが、自分は一人歩きすることが多いからよほど気をつけなきゃいけない、と、思ったそうです。
そんな折も折、ある場所で、夜遅くまで連歌して遊んで、さて一人、夜道を帰途につきました。小河(こがわ)のほとりを歩いていたら、なんとウワサの猫又出現!たちまち飛び付いて、喉に喰いつこうとします。僧はびっくり仰天、防ごうたって、腰が抜けちゃって力も出ない。小河に転げ落ちて「助けてェ!猫又だぁ!猫又だぁ!」と悲鳴をあげます。
近所の家々から、手に手に松明を掲げて、人々が駆けつけてきました。見れば顔見知りの僧です。「いったいどうなさったんです」と川の中から抱き起こします。僧は、連歌で賞品をとって扇や小箱などを持っていたのですが、それらもすべてびしょ濡れという有様でした。命が助かっただけでもありがたいと、ホウホウの体で、家に帰っていきました。

・・・でも実はこれ、飼い犬が、暗くてもちゃんと飼い主を見分けて、喜んで飛び付いただけだったとかいう話です。

なんともあまりにそそっかしい僧侶だ。こんな、肝の据わらぬ坊さんでは、お経をあげてもらってもあまり有り難くはないだろうなあ、ちゃんと成仏できるのかしらん、と心配になってしまうくらいだ。

吉田兼好『徒然草』

歌川国芳『鎌田又八』に描かれた猫又の部分アップ

さて。ご存じのとおり、兼好法師(吉田兼好)の『徒然草』は、清少納言『枕草子』・鴨長明『方丈記』と並び称される日本三大随筆のひとつである。

『枕草子』には数カ所、猫が出てくる。
『方丈記』には残念ながら猫は出てこない。
そして、『徒然草』には、上記の一箇所だけ、猫(?)が出てくる。

というわけで、猫サイトが扱うには、『徒然草』は猫の登場が少なすぎるのだが、この本の注目すべきはこの段だけではない。兼好法師は他の段で、現代的な動物愛護にも立派に通じる精神を書いているのである。

第百二十一段

 養ひ飼ふものには、馬・牛。繋ぎ苦しむるこそいたましけれど、なくてかなはぬものなれば、いかがはせん。犬は、守り防ぐつとめ、人にもまさりたれば、必ずあるべし。されど、家ごとにあるものなれば、殊更に求め飼はずともありなん。
  その外の鳥・獣、すべて用なきものなり。走る獣は檻にこめ、鎖をささえ、飛ぶ鳥はつばさを切り、籠に入れられて雲を恋ひ、野山を思ふ愁、止む時なし。その思ひ、我が身にあたりて忍びがたくは、心あらん人、是を楽しまんや。生を苦しめて目を喜ばしむるは、桀・紂が心なり。王子猷が鳥を愛せし、林に楽しぶをみて、逍遙の友としき。捕へ苦しめたるにあらず。
  凡そ、「めづらしき禽、あやしき獣、国に育はず」とこそ、文にも侍るなれ。

【意味】

 養い飼うものは、馬・牛。繋いで苦しめることになるのは可哀想だけれども、彼等の力を借りずには暮らせないので、どうにもしかたがない。犬は、家を守り防ぐ働きが、人より優れているのだから、必ず飼うべきだ。しかし、家ごとにすでに飼っている動物であれば、無理に求めてまで飼わなくてもよいだろう。
  その他の鳥や獣は、すべて、飼う必要のないものである。走る獣を檻に閉じこめ、鎖で繋ぎ、空飛ぶ鳥のつばさを切り、籠に入れてしまっては、雲を恋しがり、野山を思い焦がれる愁嘆は、止むことがない。その気持ちを、我が身にひきかえて忍びがたいと思うならば、心ある人なら、どうして飼って楽しもうなんてできるだろうか。生きものを苦しめて自分の目を喜ばせるなんて、昔の暴君、桀や紂と変わらない。王子猷は鳥を愛したが、林に遊ぶのをみて、散歩の友と愛したのである。捕らえて苦しめたのではない。
  およそ「珍しい鳥、貴重な獣は、国内で飼わない」と、昔の文献にも書いてある。

兼好法師が、飼育して良い動物と見なしたのは、わずかに馬・牛・犬の3種のみ。その理由は、この3種は人間生活にどうしても欠かせないものだから、動物達には申し訳ないけど飼わせてもらうよ、というスタンスだ。それ以外は、鳥にせよ獣にせよ、閉じこめたり繋いだりして飼うのは虐待だと言っている。まして珍獣を求めるなんてけしからん、と。

吉田兼好『徒然草』

私が持っている『徒然草』は小学館の箱入り古典全集

そう言えば、上記『方丈記』にも、「心もしやすからずば象馬七珍もよしなく・・・(心安らかでなければ、象や馬や七つの珍宝なんか持っていても意味が無い・・・)」なんて文章があったっけ。『方丈記』の時代に象とは、そりゃまた・・・?!!

今、日本各地で、様々な「エキゾチック・アニマル」が飼育されている。さらに日本にいるはずのない生き物が「捕獲(保護)された」のニュースも後を絶たない。厳重な囲いを破って脱走したというのならまだしも、飼いきれずに捨てられた子が多く、中にはアライグマのように野生化して問題となってしまった種さえある。兼好法師や鴨長明がこの有様を見たらなんと言っただろう!

エキゾチック・アニマルだけでない。動物虐待のニュースも多い。
虐待に対しても、兼好法師はこう述べている。

第百二十八段

(前略)
  おほかた、生けるものを殺し、傷め、闘(たたか)はしめて遊び楽しまん人は、畜生残害(ちくしょうざんがい)の類(たぐい)なり。万(よろづ)の鳥獣(とりけだもの)、小さき虫までも、心をとめて有様(ありさま)を見るに、子を思ひ、親をなつかしくし、夫婦を伴ひ、嫉み、怒り、欲多く、身を愛し、命を惜しめること、ひとへに愚癡(ぐち)なるゆゑに、人よりもまさりて甚だし。彼に苦しみを与へ、命を奪はん事、いかでかいたましからざらん。すべて、一切の有情(ううじょう)を見て、慈悲の心なからんは、人倫(じんりん)にあらず。

【意味】

(前略)
  およそ、生きているものを殺し、傷つけ、闘わせて楽しむような人は、鬼悪魔の類である。すべての鳥獣、小さな虫にいたるまでも、気をつけよくその様子を観察すると、我が子を思い、親を慕い、夫婦となって連れ添い、嫉んだり、怒ったりして、いろいろ欲もあれば、我が身を愛し、命を大切にしている、その様子といったら、知能レベルが人間に劣るだけに一層、人間よりひたすらで一生懸命である。そんな彼等に苦しみを与えて、命を奪うなんて、どれほど痛ましいことだろう。すべて、どんな生きものに対しても、慈悲の心を起こさないような者は、人間ではない。

生き物に対する憐れみ慈しみの心は、それがどんな生き物であろうと、誰でもが自然と有すべき、生まれつき備え持っているべきものなのだ。それは仏教徒だろうと無神論者だろうと、関係無く、持つべき心情だと私は思う。
我が子をさえ虐待してしまう現代人は狂っているとしか言いようがない。

さらに・・・

徒然草の時代には、種の絶滅が危惧されるなんてことはなかった。現代的な動物愛護や自然保護が必要とされたわけでもなかった。 それが、西暦2000年代にはいった今、地球上で絶滅する生物種は1日に100種以上。300種との説さえある。

「命あるもの」の貴重さは、700年前の比ではないのである。
仏教徒としての慈悲心云々を超えて、昔の何倍もの努力と決意を持って、「命あるもの」を大切にしていかないと、我々人類さえ近く地球上から消滅しそうな状況なのである。

ぜひ我々も兼好法師に見習って、鳥獣はもちろん、「小さき虫」にいたるまで、生きとし生けるものすべてを慈しみの目で見る習慣をつけていきたい。

吉田兼好『徒然草』

吉田兼好『徒然草』

本音はもっと深くつっこんで「徒然草」全体論を書きたいところだけど、途方もなく長くなること必須だし、そんなものは猫愛護サイトには不適切なだけだから、これだけに留めておく。あまりに簡易陳腐なレビューで御免。

(2011.3.7.)

【注】
*以上原文の底本は「烏丸本」です。
* このページの口語訳はすべて、管理人がテキトーに訳したものです。誤訳や意図的な意訳部分も多々あり、間違っても試験解答としてコピー提出などされませぬよう。

吉田兼好『徒然草』

吉田兼好『徒然草』

吉田兼好『徒然草』

東京法令出版『図説新国語便覧』、高校生用参考書ですけれど、見開きで『徒然草は扱われています』

 

※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。

 

『徒然草』

  • 著:吉田兼好(よしだ けんこう)
  • 作:元弘1年(1331年)頃
  • NDC:914(日本文学)随筆、エッセイ
  • 登場ニャン物: 猫又
  • 登場動物:-

 

 

著者について

吉田兼好(よしだ けんこう)

卜部兼顕(うらべかねあき)の子として生まれ、久我家の関係で、14世紀初頭宮廷に出仕。花園天皇の正和2(1313)年までには出家し、その後歌人として名声を得、二条為世(にじょうためよ)の門弟の四天王に数えられる。晩年は京都仁和寺の近くに住む。その生涯は謎に包まれ分からない点が多い。

(著者プロフィールは『図説・新国語便覧』東京法令出版より抜粋引用。)


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吉田兼好『徒然草』

吉田兼好『徒然草』
4.4

動物度

0.5 /10

面白さ

9.0 /10

読みやすさ

3.0 /10

愛猫家へお勧め度

5.0 /10

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