E.T.A.ホフマン『牡猫ムルの人生観』
漱石『吾輩は・・・』の参考本?
ムルは、人語を解すどころか、哲学書を読み、ちゃんと韻を踏んだ詩を紙に書いてしまうような、超天才猫。
その天才猫ムルが、若い牡猫たちの後学の為に、自分の人生(ニャン生)や考察を自伝風に綴ったのがこの本。
ところが、そこはやはり猫。自伝を書くに当たって、立派な原稿用紙などは手に入らなかったのか、匿名作家の草稿「音楽家クライスラーの伝記」の裏に、その自伝をしたためたのだ。
そして、それはそのまま無学な印刷工の手に渡り、印刷工は単純に原稿は表裏に書かれていると誤解し、そのまま印刷した・・・
つまり、ムルの人生観の途中で、突然クライスラー伝が始まり、その途中でまた突然ムルに戻り、またクライスラーになり、等々と繰り返す。
なかなか複雑な構成である。
私の正直な感想は、クライスラー伝の方はつまらなかった。
宮中での話にお決まりの、頭の弱い王子様に、ヒステリックで神経過敏なお姫様、魔法と陰謀と秘密、王子の隠し子、云々。
ムル伝だけなら、どれほどすっきりと面白く読めただろう。
ムルが書かれた時代(1820年代)では、猫の話だけでは本にできなかったのか?
ホフマンはドイツ浪漫主義時代の作家。
音楽家でもあり、絵も描き、しかし本職は司法官だった。
ドイツ文学を勉強する学生なら必ず読まされる作家の一人だろう。
漱石の「吾輩は猫である」は、この「ムル」がヒントとなったという人も多々いる。
少なくとも漱石が「ムル」を知っていたのは確かで、「猫」の本文中にもカーテル・ムル(Kater=独語で牡猫)の名が出てくる。
漱石が「吾輩」を発表した当時は、特にインテリ層は現在よりはるかに親独的だったから、「ムル」と「吾輩」の類似点をニヤニヤしながら探し読んだ読者もけっこういたのではあるまいか。
残念ながら、邦訳では「ムル」は古本でしか手に入らなくなっているようだが、本国ドイツでは無論のこと、英訳本でも「ムル」は新刊書でいくらでも手に入る、まだまだ現役の本だ。
ホフマンの小説は怪奇で有名。「この人の精神状態、大丈夫?」とまじめに心配したくなるようなものが多い。いや、多分、平成の精神医学なら、きっとなんらかの症名が付くような状態だったのではないだろうか。
この『ムル』は、ホフマンの分裂した精神状態がもっとも強く表れている作品の一つだと思う(って、彼の全作品は読んでいないけれども)。そしてまた、あの頃のヨーロッパ全体の雰囲気も色濃く出ていると思う。
そういう意味でも面白い。
もし漱石がこの本に接したことで『吾輩』執筆の機を得たのであれば、それだけでも私としては、この作品に感謝。漱石が小説家になったのは、なんといっても『吾輩』の成功があってこそ。漱石の存在しない日本文学界なんてアリエナイ。(私の感想としては、おそらく漱石は『猫』を執筆しはじめてからムルの存在を知ったのではないかとは思っているが。もしかしたら逆に、執筆中に初めてムルを知り、自分の『猫』との類似性に愕然とした結果、終了させてしまったのだ、なんて可能性すらありますよね。)
ムルは日独文学界大親善大使みたいな猫ニャ?
ところで、「ムル」は本来は三部構成だったそうだ。しかしホフマンの早い死が第三部を幻と化してしまった。残念。
(2002.4.21)
※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。
『牡猫ムルの人生観 (上)』
- 著:ホフマン
- 訳:秋山 六郎兵衛
- 出版社:岩波文庫
- 発行:1956/12/5
- NDC: 943(ドイツ文学)長編小説
- ISBN:4003241436
- 原書:Lebensansichten des Katers Murr
- 登場ニャン物:ムル、ミーナ、ムーツィアス、プフ、ヒンツマン、キティ
- 登場動物:ポント(プードル犬)