景戒『日本霊異記』

『日本霊異記』

日本で「ねこ」が登場する最古の文献。

『日本霊異記』の正式名称は『日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんぽうぜんなくりょういき)』。南都薬師寺の僧・景戒(きょうかい)が著した説話集で、日本最初の短編小説集でもあります。およそ五世紀から八世紀の末期までの説話がだいたい年代順に並べられ、上中下の三巻に分けられています。

  • 【上巻】計三十五話、およそ雄略天皇(五世紀)から奈良時代初期までの説話
  • 【中巻】計四十二話、奈良時代中期の聖武・孝謙・淳仁の三代の天皇のころの説話
  • 【下巻】計三十九話、奈良時代後期の称徳・光仁の二代と、平安時代初期の桓武天皇時代の説話

『日本霊異記』は、延暦六年(787)に一応まとめられました。その後、嵯峨天皇の弘仁十三年(822)にも少し書き加えられたそうです。その間に35年もの期間がありますが、いずれにせよ、早ければ787年頃、遅くとも822年頃に、日本で初めての「猫」が文献に登場したということになります。

登場したといっても、わずか一箇所、ごく短い登場です。猫についての詳しい描写は、宇多天皇(867~931年、第59代天皇在位887~897年)の『寛平御記(宇多天皇御記)』を待たなければなりません。

『日本霊異記』

猫が登場する場面

では早速その箇所を紹介しましょう。

登場するのは「上巻」の「非理に他(ひと)の物を奪ひ、悪行を為し、報(むくい)を受けて奇(あや)しき事(わざ)を示しし縁 第三十」の章です。

あらすじ

膳臣(かしわでのおみ)広国(ひろくに)は豊前国宮子郡(ぶぜんのくに みやこのこおり、現在の福岡県京都郡)の次官でした。文武(もんむ)天皇の御代慶雲二年(705年)の秋の9月15日に一度死にますが、その三日目の17日に生き返り、ある告白をします。

彼は死後、度南(となん)の国に連れていかれ、王の前に引き出されました。そこでは死んだ妻が責め苦にあわされていました。王は妻との過去を調べ、広国に罪はないと判断したあと、父に会いたいなら南の方へ行けと言います。広国が行ってみると、父はさらに酷い責め苦にあえいでいました。広国が悲しむと、父は言います。自分がこんな辛い目に合っているのは、生前、生き物を殺したり、商売で詐欺をしたり、他人の妻を犯したりし、また不孝息子で年長者を尊敬することもせず、他人をこき使ったりしたからだ。地獄の責めはとても苦しい。お前は私のために仏を造り、お経を写して、私を救ってくれ、と。

さらに、

『わたしは飢えて、七月七日に大蛇となってお前の家に行き、家の中に入ろうとしたとき、お前は杖の先に私を引っ掻けてぽいと捨てた。また、五月五日に赤い小犬となってお前の家に行ったときは、ほかの犬を呼んでけしかけ、追い払わせたので、私は食にありつけず、へとへとになって帰ってきた。ただ、正月一日に、になってお前の家に入りこんだときは供養のために備えてあった肉や、いろいろいのごちそうを腹いっぱい食べてきた。それでやっと三年来の空腹を、どうにかいやすことができたのだ。またわたしは兄弟や身分の上下を無視し、道理に背いたので、犬と生まれて食い、口から白い泡を出してあえいでいる。わたしはまた、きっと赤い小犬になって食を漁ることになるだろう』と語るのであった。
中田祝夫訳、ISBN:9784061583351 page183-184

広国は生き返った後、父に頼まれた通り、仏像を作ったり、お経を写したり、仏法僧の三宝を供養して暮らしました。また彼の不思議な体験を記録して世間に広めました。

当該箇所の原文(書き下し文)

「非理に他(ひと)の物を奪ひ、悪行を為し、報(むくい)を受けて奇(あや)しき事(わざ)を示しし縁 第三十」

(前略)我(われ)飢ゑて、七月の七日に大蛇に成りて、汝が家に到り、屋房(やど)(に入らむとせし時に、杖を以て懸け棄てき。又、五月五日に赤き拘(いぬ)に成りて汝が家に到りし時に、犬を喚びて相(あは)せて、唯に追ひ打ちしかば、飢ゑ熱(ほとほ)りて還りき。我正月一日に狸(ねこ)に成りて汝が家に入りし時に、 供養せし宍(しし)、種(くさぐさ)の物に飽きき。是を以て三年の糧を継げり。我が兄弟・上下の次第なくして理を失ひ、犬と成りて噉(くら)ひ、白く汁を出す。我必ず赤き狗に成るべし』といふ。(後略)

《附》

『日本霊異記』の古写本のうち興福寺本が奈良女子大学の「奈良地域関連資料画像データベース興福寺本『日本霊異記』にてネット上で公開されています。こんな古写本が家にいながら見られるなんて、すばらしい世の中になったものですね♡

猫の姿になったときだけ、食べ物にありつけたのは?

さて、ここの部分ですが、興福寺本『日本霊異記』(国宝)を見ると「狸」の字が使われています。

古代では「狸」は猫の意味にも使われていました。各種訓釈(各原文のあとに万葉仮名・片仮名で訓読法を注記したもの)では「禰古・祢古・ネコ」等と読ませています。やはり猫のことなんです。

となりますと、猫派として気になるのは、猫と大蛇・犬(狗=小型犬)との扱いの差。大蛇のときはポイと捨てられ、小犬のときは虐められたのに、猫のときはご馳走をたらふく食べることができた。この違いはどこから?

まず第一に考えられるのは、猫という動物の習性や能力でしょう。

  1. 足音を立てない
  2. 暗闇でも行動できる
  3. 高い所に飛び乗れる

これらの要素は、小犬には難しそうです。蛇なら1と2は出来そうですが、ジャンプは出来ないでしょう。猫が食べたのはお供え物、それなりの高さの棚か台の上に乗せられていた可能性は高く、それなら猫しか食べられなかったという理由も頷けます。

また、忍び込んだ時期にも理由があるかもしれません。

猫ジャーナル」>「猫の日本史:日本霊異記の「猫」、正月一日にこっそり現れる https://nekojournal.net/?p=3851 」では、「七月七日は七夕、五月五日は重陽、そして大晦日の翌日である正月一日の共通点は、供え物を捧げて祀る日」であったが、猫の時だけ食べ物にありつけたのは「(正月の前日の大晦日は)先祖供養の祭りだったことも影響しているのかもしれません。」と書いています。さらに「平安期の日本人に『猫は、供え物を放っておくと、咥えて持って行ってしまうやつ』という感覚があったとすれば、猫と当時の日本人とは、比較的身近な距離にいたことがうかがえます。」とも。

(なお、上記サイトでは「猫でなくては入れない屋内」も考えられる理由の一つとして上げられていますが、日本家屋の開放的な構造を考えますと、700年頃の当時、家の中にヘビや犬が迷い込むなんて普通にあったことではないかと、私は思うんですよね。今の時代でも田舎の我が家でヘビが入ってきたなんて何回もありますから。)

上記の理由の他に、私がもうひとつもしかしたらと思うのは、猫が大陸から日本に連れてこられた理由です。大事な経典を鼠害から守るために、猫は船に乗せられはるばる日本まで連れてこられたといわれています。そしてそんな猫達は平安貴族の人気のペットでもありました。当時の人々、とくに仏教の信者たちが、猫のことを、蛇より犬より大事に扱っただろうことは、容易に想像がつきます。他の動物達は追い払われても、猫だけは何をしても大目にみられた、なんてことがあったのかもしれません?

『日本霊異記』
(上)

景戒と『日本霊異記』について

景戒(きょうかい/けいかい)は、奈良後期から平安初期にわたって生きていました。僧と言っても、いわゆる聖者・高層といわれるような身分ではなく、「下巻」の最後の方を読めば、景戒には妻子があり、馬を少なくとも二頭飼育し、自宅に持仏堂を作っていたことがわかります。薬師寺となんらかの関係があったようですが、詳細についてはわからないそうです。

彼は仏教の因果応報を真剣に信じ切っていたようで、それは『日本霊異記』全体によく現れています。善い行いには必ず善い報いが、悪い行いには必ず悪い因果が与えられるのだ、と。景戒は、その因果応報が示された話を広く集め残すことで、人々に警告し、仏教の教えを広めようとしたのでした。

彼の熱意は、『日本霊異記』の上巻の「序」に如実に書かれています。彼は「序」をこう締めくくっています。

(前略)祈(ねが)はくは奇記を覧(み)む者、邪を却(しりぞ)けて正に入れ。諸悪莫作、諸善奉行(しょあくまくさ、しょぜんぶぎゃう)。

【口語訳】お願いしたいことは、この珍しい話を読む人は、まちがった行いをしないで、善行を踏み行ってくれることである。どうか、どんな小さな悪でも、一切の悪を行うことをせずに、もろもろの善行を行ってほしいものである。

ISBN:4061583352 page32, 33-34

景戒が皇族貴族や高層といった、いわゆる「高いご身分の方々」ではなかったからこそ、『日本霊異記』は当時の仏教思想や庶民の生活を知る上で重要な資料となっています。正直、『日本霊異記』に語られている仏教思想はかなり浅いというか、未発達なものではあります―――少なくとも私はそう感じました。初期の仏教ってこの程度のものだったのかな、これなら”比叡山の僧兵”などという、およそ仏教思想とはかけ離れた荒くれ集団が現れたのも理解できるか・・・いやいや、理解できません!景戒が何より強調しているのは「殺生はいけない」ということなのですから。あとは、他人の物を盗んではいけない、中でも寺の所有物を盗むのは罪が深いということや、僧を苛めてはいけないとか、写経の功徳について、などといった事が書かれています。

この仏教が後世の『正法眼蔵』(道元)のような思想に高められていくんですね。『正法眼蔵』は高邁すぎて凡人には読めない書物となっていますが、この『日本霊異記』の仏教なら、当時の日本の庶民階級にまで広まった背景がわかるような気がします。

『日本霊異記』
(中)

その他のネコ科

猫以外のネコ科では、トラが出てきます。といっても、猫同様、単語が出てくるだけですけれど。以下、その該当箇所だけ抜き出します。

上巻 孔雀王の咒法(じゅほふ)を修持(しゅぢ)して異(めづら)しき験力(げんりき)を得、以て現に仙と作(な)りて天を飛びし縁 第二十八

吾が聖朝(みかど)の人、道照法師、勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて、法を求めむとて太唐に往きき。法師、五百のの請を受けて、新羅に至り、其の山中に有りて法華経を講じき。時に虎衆(とらども)の中に人有り。倭語(わご)を以て問を挙げたり。法師、「誰ぞ」と問ふに、役(え)の優婆塞なりき。
(ISBN:97840615833351 page167-168)

口語訳

我が国の人、道照法師が、天皇の命を受け、仏法を求めて唐に渡った。ある時、法師は五百のの招きを受けて、新羅の国に行、その山中で『法華経』を講じたことがある。その時、講義を聞いているの中に一人の人がいた。日本の言葉で質問した。法師が、「どなたですか」と訪ねると、それは役優婆塞であった。
(ISBN:97840615833351 page170)

中巻 序

三界(さんがい)を還(めぐ)るは、車輪(くるまのわ)の如し。生きながら六道を廻は、萍(うきうさ)の移るに似たり。此(ここ)に死に、彼(かしこ)に生(うま)れて、具(つぶさ)に万苦を受けたり。悪因は轡(くつばみ)を連ねて苦しき処に趍(はし)る。善業縁に攀(よ)ぢて安き堺を引く。頤(ふか)き慈(うつくし)びに頼(よ)りて膝の前に(※とら)を懐け、生愛に由りて頂の上に羽(とり)を棲ましう。孟甞(もうしょう)の七善と、魯恭(ろきょう)の三異とは、蓋(けだ)し斯(こ)の意ならむ。

(ISBN:9784061583368 page27)

(※とら)の字が変換できなかったので画像で示します。

【意味】虎のこと。音はケン・ゲン。二匹の虎が獲物を争い取るところから、分ける、むかい争うの意がある。また狗に似た獣の称にも用いる。争い合う激しい虎を想定して用いたのであろう。

(ISBN:9784061583368 page30)

口語訳

しかし一般の衆生が物質界で迷い、三界を回り回ることは車輪のようである。六道を漂うのは、浮草のように定めがない。ここ死んだかと思うと、かしこに生れ、もろもろの苦しみを受けるのである。悪行の因縁はくつわを並べて苦の世界を走っている。善の行為は縁に引かれて楽の世界に導かれる。深い慈悲の心によって、膝の上の猛虎をなつけ、限りない慈愛によって、頭の上に鳥を棲ませることもできる。孟甞が七つの善い行いと、魯恭に三奇異があったことは、思うにこのことである。

(ISBN:9784061583368 page28)

下巻 官(つかさ)の勢いを仮りて、非理に政を為し、悪報を得し縁 第三十五

嗚呼(ああ)鄙(とひと)なるかな、古丸。狐のの皮を借る勢を用(も)て、非理に政を為し、悪報を受くと者(い)へり。因果を睠(かへり)みぬ賤しき心の、太(いと)甚(はなは)だしきなり。因果きには非(あら)ぬなりけり。

(ISBN:9784061583375 page239)

口語訳

ああ、いやしいことだ、古丸は。狐がの威を借りるようなやり方で、道理に外れた政治をし、悪い報いを受けたのだ。仏法の因果応報を考えない、いやしい心がはなはだしかったからである。世界に因果応報の道理がないわけではないのだ。

(ISBN:9784061583375 page241)

『日本霊異記』
(下)

※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。

『日本霊異記』

上・中・下

  • 著:景戒
  • 全訳注:中田祝夫
  • 出版社:株式会社講談社 講談社学術文庫
  • 発行:上:1978年、中:1979年、下:1980年
  • NDC:913.37(日本文学)説話物語
  • ISBN:9784061583352、9784061583368、97840615833375
  • 209、279、320ページ
  • 登場ニャン物:(無名)
  • 登場動物:大蛇、狗・犬、虎、鹿、狐、牛、馬、兎、猿、鷲、烏、魚、ほか
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