谷口ジロー絵『『坊ちゃん』の時代』全五部
関川夏央原作。
明治時代の文壇を描いた大作。関川夏央原作、谷口ジロー絵。マンガではあるが、下手な本よりずっと面白いし、内容も深い。これを読めば明治後半の文学史がすっかり頭にはいるのではないだろうか。
『坊ちゃん』の時代 第一部 凛冽(りんれつ)たり近代 なお生彩あり明治人
1987年発行 ISBN:4575930598 9784575306873
この作品を、ネコマンガとして推薦するというのは疑問だとは思う。なぜなら、猫は脇役のまた脇役というか、単なる背景画の一部に過ぎないのだから。
しかし、私は大の漱石ファンである。そして『吾輩は猫である』のファンである。漱石と猫が並んでいたら、私としては、もう推薦しないわけにはいかない。
時代は明治38年。漱石は、雑誌『ホトトギス』に『猫』を発表した。今は『坊っちゃん』の構想を練っている。漱石の周囲には、様々な人物が集まってくる。森鴎外、森田草平、平塚明子、ラフカディオ・ハーンなど、そうそうたるメンバーが登場する。明治時代の知識人の苦悩と誇り、迷いと欲、西洋文明に対する強い憧れと激しい嫌悪。読み応えのある1冊だ。明治時代が好きな人にはたまらない本だろう。
ここに登場する漱石は偉人ではない。悩み、迷い、人前で鼻毛を抜いたり、酒を飲んで暴れたりする。明治の日本を鋭く見つめながら、『坊っちゃん』の構想にひとつずつ取り入れていく。漱石は、坊っちゃんのような生き方が通用する世の中ではなくなったことを知っている。正義よりも権力が勝つことを知っている。『坊っちゃん』という小説の哀しさがあますところなく語られている。
そして、ついに漱石は決心する。 教師を辞め、小説一本で生活していくことを。
なお、このシリーズは第5部まである。しかし第2部以降はエリス(森鴎外『舞姫』のモデルとなった女性)や、石川啄木などが主人公となり、漱石はちらちら顔を出すが猫は出なくなる。否、第5巻目はまた漱石が主人公で猫も何回かは出てくるが、登場人(ニャン)物と数えられるほどの登場の仕方ではない。
(2004.12.310)
『坊ちゃん』の時代 第二部 秋の舞姫 凛冽(りんれつ)たり近代 なお生彩あり明治人
2002年発行 ISBN:4575712302 9784575712445
第一部が夏目漱石なら、第二部は当然、日本の二大文豪のもう一人、森鴎外ということになろう。
が、話の中心は、鴎外よりも、『舞姫』のモデル・エリスである。
エリス(エリーゼ)・バイゲルト。ドイツから日本まで鴎外を追ってきた女性。
若い女性が単身で、今でもなかなか出来ないことだ。ましてあの時代は、船でインド洋を渡ってくるのである。
通信事情も発達していなかったころ、ドイツではヤーパンという国の存在さえろくにしられていなかったのではないか?
1960年代にイギリスに行った人が、「日本にはテレビがあるのか」とまじめに聞かれて仰天したそうだ。鴎外が帰国したのは1888年。当時の日本人は、ドイツを先進国と認識していた、だから日本人がドイツにいくのは、あこがれを持ってみられた時代だったろうと思う(今でもそうだろう)。しかしドイツから見たら、日本なんて異国も異国、とんでもない野蛮国と思われていたのではないだろうか。
その勇敢なエリスを、鴎外は無情にも振ってしまう。
鴎外の苦悩も一応描かれているし、実際鴎外は相当苦悩しただろうとは思うが、それでも、やっぱり薄情な男だと思わずにはいられない。
一人の女性の真摯な愛よりも、出世や世間体や家の格式の方を選んだ男だと、思わずにはいられないのである。
明治男としては仕方なかったのだと鴎外はいうだろうし、周囲も言うのだろうけれど・・・
そんな鴎外だから『雁』のようなストーリーの話を書けたのか?
また逆に『高瀬舟』の罪人の境地を描ききることが出来たのか?
私は、なぜか鴎外というとゲーテを連想する。似ているような気がするのだが、どうだろう?
(2004.12.16)
『坊ちゃん』の時代 第三部 かの蒼空に 凛冽(りんれつ)たり近代 なお生彩あり明治人
2002年発行 ISBN:4575712310 9784575712407
歌人・石川啄木を中心に話が展開する。
私は石川啄木についてはほとんど何も知らない。学校の授業で名前を覚え、教科書でいくつかの作品に接したという程度だ。
繊細で敏感な歌人というイメージを持っていたが、この本によれば、どうしてどうして、実に救いがたい男だったらしい。
薄給のくせに浪費癖が抜けず、友人知人芸妓にまで借金をしまくり、ついに返せず25歳で逝ってしまった。
芸術家らしいといえば芸術家らしいがあまりに現実離れした男だったのかもしれない。
もっとも啄木は第五部まで頻繁に顔を出す。啄木が死ぬのは第五部の最後である。
この第三部では、啄木は気楽にホクホクと歩き回り歌を作り勤め先の朝日新聞社に出かけていっては給料の前借りをしている。
(2004.12.16)
『坊ちゃん』の時代 第四部 明治流星雨凛冽(りんれつ)たり近代 なお生彩あり明治人
2003年発行 ISBN:457571240X 9784575712315
主題は幸徳秋水と大逆事件に移る。
天皇の暗殺を計画したとて社会主義者や無政府主義者26名が逮捕され、24名に死刑判決が下され、うち12名に死刑が行われた。
幸徳秋水や管野須賀子も死刑に処された。
しかし26名のほとんどが冤罪だったという。幸徳秋水も。
「・・・それはまさに不思議な事件だった。どう考えてみても大部分の被告たちは、その行動によってではなく、その思想によって処刑されたとしか受け取れなかったので、沈黙を守った作家達も等しく不吉な衝撃を味わい、このときに日本の青年期たる「明治」は事実上終焉した。」
今の日本ではこういう事件は起こらないだろうとは思う。
あってはならない。
最近の警察は検挙率が落ちただの、警官や政治家の堕落が目立つだのと批判されるが、それでも、事件をでっち上げて無実の人間を大量処刑してしまう世の中よりは良いと思う。
幸徳秋水がこの世から消えたとき、日本の敗戦までの道が決められたといって良いのかもしれない。
日本が二度と戦争に荷担する愚を起こさないことを心底から願っている。
(2004.12.16)
『坊ちゃん』の時代 第五部 不機嫌亭漱石凛冽(りんれつ)たり近代 なお生彩あり明治人
2003年発行 ISBN:4575712442 9784575712308
この第5巻で、話はまた漱石に戻る。
漱石は小説を書くことで精神的に救われたはずだった。「猫」や「坊っちゃん」の時代は書くことで救われていた。
しかし朝日新聞に入社し小説一本で生活することを決めてから、書くことが次第に強い負担となっていく。ついには胃を悪くし、有名な「修善寺の大患」を経験する。
漱石は修善寺で病気療養中に、30分ほど‘死んだ’。 確かに死んでいたという。が、漱石自身には死の実感が全然ない。真上から横へ寝返りを打ったというだけの意識しかなかったらしい。実はその寝返りの最中に大量の吐血をし30分も死んでいたのだ。驚くべき体験だった。
私は死んだことはないが全身麻酔ならかけられたことがある。注射針が腕にささり、点滴の中に麻酔薬が混入されるとすぐに、ぐわりと意識が追いやられた。通常の入眠ではない。自然に眠るときは、体の中から眠りに落ち込んでいく感じだが、全身麻酔は、体の横から真っ黒なモノがいきなり乗り込んできて意識が奪われたという感じだった。しかし不快ではなかった。それどころか、その刹那、私はこんなことを考えていた。
ああ、これが死ぬという感覚なのかもしれない、それならこのまま死んでも良い。と。
勿論死ななかったし、死ぬような病気でもなかった。なぜあの瞬間に、そのまま死んでも良いと思ったのかわからない。そう思わせるほどに甘美な何かがあったのだ。あのとき私は、自分が麻酔をかけられて意識を失う予定であることを知っていた。が、もしそれを知らなかったら、なにやら突然世の中がゆらいで、次の瞬間にはなぜか別な部屋に移動していたと思ったかもしれない。麻酔中も覚めるときも、私は夢ひとつ見なかった。遠くに看護婦さんだろうか声が聞こえて、引き戻されたように目が覚めた。体はふらふらしていたけれど、寝たというう感覚ではなかった。別の何かだった。
あのとき、私は、漱石の30分の死も、あるいはあんな感じだったのだろうかと思ったのだ。
間に時間の感覚はない。睡眠とも明らかに違う。マンガでは、この30分の間に漱石はずいぶん色々な夢をみたことになっているが、漱石の書いたものを読む限り、実際には夢は見なかったはずだ。私の麻酔はタイムワープしたように前後の意識はつながっていて、肉体にだけはっきりと衰弱が残っていた。死の淵をさまよった経験のある人はよく離脱経験を口にするが、漱石にはそれもなかったらしい。とすると、あの全身麻酔の感覚に近いような気がする。
なんにせよ、漱石があのときに死ななくて本当によかった。できれば100歳までも長生きしてもっと本を書いて欲しかった。漱石の本なら何回読んでもよい。飽きることはない。
ところで、第五部では漱石の奥さんである鏡子夫人もたびたび登場するのだが、なぜか鏡子夫人の顔は描かれない。後ろ姿であったり、顔の部分だけ切れていたりする。他の女性達ははっきり描かれているのに、なぜだろう?
鏡子夫人を悪妻と呼ぶ男も多いが、私は、現実問題として、もし漱石のような男が夫で毎日一緒に暮らしていたなら、あれ以外対処しようがなかったじゃないかという気がする。むしろ鏡子夫人は賢かったのだと思う。少なくとも夫の才能を余すことなく開花させた。優しく理解あるばかりに男を駄目にしてしまう妻は多い。才能ある男にとっては、その才能を引き延ばすような妻こそある意味で理想の妻なのでは?
(2004.12.16)
※著作権法に配慮し、本の中見の画像はあえてボカシをいれております。ご了承ください。
『坊ちゃん』の時代 』
第一部~第五部/small>
- 原作:関川夏央(せきかわ なつお)
- 画:谷口ジロー(たにぐち じろー)
- 出版社:双葉社
- 発行:1987年~
- NDC:726(マンガ、絵本)
- ISBN:上記
- 登場ニャン物:(無名)
- 登場動物:-